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迷いどおしや。迷わにゃ仏さんにも遇えんわね(北村金次郎)

2020.12.01

松本梶丸師編著『生命の大地に根を下ろし-親鸞の声を聞いた人たち』

池田勇諦師講述『和国の教主 親鸞聖人における聖徳太子観』(暁宇会刊行・@500円にて頒布☞了善寺内事務局まで)にも北村翁は登場する。ホンモノが一人生まれると、自ずから伝播する証明である。


「小松市白江町におられた勧帰寺さんのご門徒、北村金次郎さんは、白江町の同朋会を創りあげた中心人物でした。白江町の皆さんは、実に熱心に聞法相続しておられましたね。北村さんも亡くなられてから、もう随分経つと思います。かつてのご門徒は、こういう言葉を始終聞きあい、口にしておられたのですね。それで、それはどういう言葉かと申しますと、「仏法聞くっていうことは、生きとるうちに自分の葬式をさせてもらうことや」。北村さんは、なかなか念が入った言い方でした。「聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもって本とせられ候うということは、どういうこっちゃ。生きとるうちに自分の葬式せえっちゅうことや」と。金次郎さんは、いつも言っておられましたね。北村さんにご縁のあった方なら、きっと耳になさっている言葉だろうと思います。・・皆さん方なにやら、ポカーンとしておいでるね。(笑)こういうことを聞いたら、飛び上がらなアカンわね。「飛び上がらなアカン」と聞いてから、飛び上がっとったんでは、ますますアカンけどね(笑) 」



分別のモノサシで聞く私は「その御文は聖典837頁に掲載されているけれど「葬式」なんてどこにも書かれていない。ましてや「自分の葬式せえ」とは、あまりに滅茶苦茶な読み方ではないか。こんなにわからないことを言うから、真宗は広まらないんだ」とブツブツ言うか、読み飛ばすか。

信心は飛躍である。分別の地続きではない。「日ごろの心」では「絶対」に聞けないのだ。「絶対」とは、文字通り断「絶」であり「絶」縁である。無有出離之縁がそのまま無縁の大悲とは仏法不思議である。

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