本師親鸞おはすとも 蓮如上人居まさずは
2025.05.20

5月某日、福井教区第六組公開講座のご縁で、蓮如上人のご旧跡吉崎別院にお参りした。林暁宇先生が世に出した「三味線婆ちゃん」の石碑が建立されている、大切な場所である。
北陸一帯、滋賀、大阪、愛知、岐阜、あるいは東北各地などは、蓮如上人及びその令息や門弟、また派祖である教如上人の教化によって掘り起こされた土地である。親鸞聖人は教団も寺院も「もたずそうろう」だった。だから、覚如上人以降のお歴代の功績なくして、現在の本願寺教団が存在しないことは確かである。
本師親鸞おはすとも/蓮如上人居まさずは
濁世末代の凡愚は/如何(いか)でか浄土を願ふべき
暁烏敏(1877-1954)『蓮如上人奉讃四十八首』

あわら市在住の後藤金三郎師(96歳)に10年余りを経て再会かなったことは何とも嬉しかった。蓮如上人御影道中のレジェンドである。ご下向、ご上洛の道をすべて把握され、御輿を奉安しお運びする台車のタイヤがパンクしないように工夫されたり、また蓮如上人を偲んで道中の全日程を野宿されていた。

「蓮如上人奉讃会」 後藤金三郎師

得度されて近隣の寺のお役僧でもあったが、激しいご気性であり、歯に衣着せぬ物言いだった。とりわけ寺や僧分に対しては、きわめて厳しかった。お役僧の立場から見える寺院の現状への絶望と大きな願いが感ぜられた。が当時の私には怖い人でもあった。
林暁宇、谷田暁峯両師とのご縁は、きわめて深かった。林先生は、後藤さんに「蓮如輿(こし)名利のわれが供奉(ぐぶ)もうす」との句を奉呈されていた。「名利のわれ」が名利のままに名利を尽くす道中だったのだ。 僧伽なればこその一句である。
04年10月11日、具足舎での報恩講の折、お勤めを終えた林先生が「後藤さん、御文読んでくれ」と声をかけた。後藤さんは「ハイ」と返事され、拝読を始めたのは四帖目八通「八か条」の御文であった。蓮如上人71歳の一通だが、僧俗に向かって八か条の掟を示された、五帖御文の中で最も長文である。
御文を拝読される後藤師の野太い声は蓮如上人のお叱りそのもの、自分が𠮟られている・・と身に響いた。一つひとつの言葉が生きていた。 私にとっては御文への印象が一変した出来事だった。生身の蓮如上人さながらであった。
一 近年仏法の棟梁たる坊主達、我が信心はきわめて不足にて、結句門徒同朋は、信心は決定するあいだ、坊主の信心不足のよしをもうせば、もってのほか腹立せしむる条、言語道断の次第なり。已後においては、師弟ともに、一味の安心に住すべき事。
一 坊主分の人、ちかごろはことのほか重坏のよし、そのきこえあり。言語道断しかるべからざる次第なり。あながちに、酒をのむ人を停止せよというにはあらず。仏法につけ、門徒につけ、重坏なれば、かならず、ややもすれば酔狂のみ出来せしむるあいだ、しかるべからず。さあらんときは、坊主分は停止せられても、まことに興隆仏法ともいいつべきか。しからずは、一盞にてもしかるべきか。これも仏法にこころざしのうすきによりてのことなれば、これをとどまらざるも道理か。ふかく思案あるべきものなり。(『真宗聖典』①825頁)
「八か条」の一節である。
僧分に信心がない上に、信心決定した門徒から指摘されると逆ギレするとは、言語道断である。
僧分は酒ばかり飲んでいて、酩酊する始末。言語道断である。
信心の再興に生きた蓮如上人ならではのお叱りである。
蓮師が「世間通途の義に順じて」とか「王法を守れ」というのも、決して世間への妥協ではない。喜びの余り、他宗を批判したり、目に余る言動を繰り返す当時において発した掟であり、まさに時代教学である。
現代においても、残念ながら大谷派も例外ではなく、不祥事を隠蔽したりコンプライアンスが欠如した組織、そして私自身が耳を傾けるべき教えである。仏法聴聞によって高上りして社会の一員になれず、とかく世間軽視になる危うさを蓮如上人は見とおしておられたのだ。だから「蓮師は世俗的ではないか!」という批判は、あきらかに的外れである。
この点は『蓮如上人御遺言』 (『真宗史料集成』2巻595-596頁) に鮮明に遺されている。
「一流の中に於いて仏法を面(おもて)とすべき事勿論(もちろん)也。然りと雖(いえど)も世間に順じて王法をまもる事は仏法を立てられんがためなり。而に仏法をば次にして王法を本意と心得事、当時是多し。もっともしかるべからざる次第なり」

もう一人のレジェンド、故中村清氏のご家族も参詣くださっていた。中村さんからは、お便りを頂戴したり、お米を送ってくださったこともあった。ご子息のご西帰という逆縁にあわれた方だった。ご晩年にお連れ合いがご西帰された際には、曾孫を含めた一族25名で「収骨奉仕団」を結成して上山された。自筆の表白を御影堂の外陣で拝読し、奥さまの収骨を見届けられたのだった。
今回参詣くださった若き孫娘さんは佐野明弘先生のもとで聴聞されていると聞き、中村さんはきっとご照覧であろうと胸が熱くなった。
私にとっての中村さんと後藤さんは、 雨どいを補修したり、寄付を集めたりと、 吉崎別院に、蓮如上人に、全身全霊をもって供奉し続けた先達である。本気であった。
蓮如上人御影道中は、宗派も教区も実質的に長らくノータッチ、門徒によって伝えられてきた御仏事である。だからこそ継承されてきたのかもしれないが、宗派内で近年スポットが当たっていることは嬉しいことである。

09年8月30日「香草忌」(暁烏師ご命日記念法座) 広大舎にて
吉崎別院への寄付を呼びかけられた
耳が聞こえず、目も薄くなられた後藤さんは、最前列で2時間にわたり聴聞くださった。私の声は届いていないはずだが、身じろぎもせずに、ずっとお参りくださった。そのお姿を真正面から拝ませてもらった感銘から、私は声を張り上げていたようで、ご参詣の皆さまはさぞや聞きづらかったことと思う。二日経っても声がかすれているのだが、私にとってはそれほどに有難いご縁だった。
三味線婆ちゃんの歌碑については次稿に。南無阿弥陀仏
