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コラム・法語
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「おのおの十余か国のさかいをこえて」

2022.10.21

今日の午後、石川県小松市内の真宗大谷派某寺の報恩講「初逮夜(しょたいや)」にお参りさせていただいた。明日は東京の自坊からZoomにて出講するのだが、そのリハーサルを兼ねて、副住職氏のご自坊での初めての法話を聴聞することが叶ったのだった。

自身の履歴書が唯一の法話レジュメであり、現在のご自身に至る背景を語られた。「僧侶になることと大谷大学への進学は絶対に嫌だ」が氏の信念であり、9歳時の得度受式(とくど・大谷派では親鸞聖人に倣って9歳から受式可能・大谷派僧侶の入門式)を長年恨んでいた、と語られた。実際に大谷大学は選ばず、一般大学に進まれている。
その後に紆余曲折を経て、そのおかげで、現在はご自坊で暮らしておられる。法話の後席で「自分は仏教徒です、と言えます」と力むことなく表白された姿は、清々しかった。結びで引用された暁烏敏師の言葉も極めて深く、副住職氏のご法話は私には強く響いた。氏が反発し続けた道程は、自分を見る思いでもあった。


2010年6月6日 西方寺(愛知県碧南市・清澤満之師の自坊)
「浜風臘扇忌」(ひんぷうろうせんき)記念法話



明日は谷田暁峯(ぎょうほう)師のご命日(釋暁峯・2011年10月22日78歳にて西帰)なのだが、ご法話を聞きつつ、浮かんできた師の仰せがある。
主催する道場「広大舎」(こうだいしゃ・石川県能美市緑が丘・師の遺言通りに西帰と共に終焉)での報恩講の際、道場主の挨拶として、次のように言われた。

歎異抄の第二章段でおのおの十余か国のさかいをこえて、と言われとりますけど、わしが今朝ここに、皆さんの前に立つまでの七十数年が、おのおの十余か国のさかいをこえて、なんですね」。

言葉の表面的な意味、文脈からは、とてもそう読めない。信心とは、飛躍である。ひょいと超えるのだ。
暁烏敏師は「言葉を聞く者はあるが、言葉のほんとうの意味を聞く者は少ない」(『暁烏敏日記』・大正4年1月19日)と喝破されているが、「ほんとうの意味」とは、外からでなく内から、他者からでなく自身から、わが身から聞こえてくるのだろう。

谷田先生のご命日のお逮夜、新たに出遇わせていただいている。あの朗らかな念仏の声が聞こえてくる。南無阿弥陀仏

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