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コラム・法語
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「師を誤ることほど不幸なことはない」

2022.09.14

元統一教会に関する報道が続いているが、論点整理が必要に思う。まずは憲法20条「政教分離」「信教の自由」を正しく解釈し、共有する必要があるのだろう。
例えば真宗大谷派には「国会議員の会」がある。真宗門徒の議員諸氏に参加を呼びかけ、法話を含めた集いを開催している。宗教と政治を分断し、宗教=内面の領域、政治=社会的現実と区分するのが「政教分離の原則」ではない。

「政教分離の原則」は、かつて国家神道を掲げた国家体制への反省から、国家が特定の宗教を保護したり、逆に弾圧することを防ぎ、信教の自由を保障する趣旨である。あくまでも「国家への規制」である。

また霊感商法については消費者庁の所管だが、「宗教行為としての寄付」と「消費者問題」の線引きが当面の議論のようである。(9月14日付日経新聞『旧統一教会と政治 専門家に聞く㊤』)「宗教の周辺には占いや風水など、科学的に証明困難な風習はいくらでもあり、これらを一律に問題視することはできない」(同紙)ともある。一方で不安をあおり、法外な値段の物品を売りつける関係は、もはや教団内の光景ではなく詐欺であろう。

1995年3月、オウム真理教の地下鉄サリン事件で散布の実行役だった林泰男元死刑囚の一審判決時の裁判長の言葉が次のように伝えられている。

被告人を一個の人間としてみるかぎり、被告人の資質ないし人間性それ自体を取り立てて非難することはできない」
「およそ師を誤ることほど不幸なことはなくその意味において被告人もまた不幸かつ不運であったといえる」

鴨長明『発心集』の次の一節を想起する。
仏の教え給えることあり、​「心の師とはなるとも、心を師とすることなかれ」と。​まことなるかな、この言。​

鴨長明は、仏教の核心を「心を師とすることなかれ」と聞きあてていた。仏教はわが心そのものを吟味する「師」であって、わが心を「師」としてはならぬと。「師を誤る」とは、人師との出遇い、裁判長は教祖浅原との出遇いを指して説諭されたに違いない。業縁存在として見抜く、深い見識が伝わってくる。
さらに「誰を師とするか」を選ぶ「わが心を師とする」危うさを、鴨長明は仏教から聞きあてていた。『発心集』の一節は、まさに甚深微妙である。

釈尊は「弟子たちよ、おまえたちは、おのおの、自らを灯火とし、自らをよりどころとせよ、他を頼りとしてはならない。この法を灯火とし、よりどころとせよ、他の教えをよりどころとしてはならない」(仏教伝道協会『仏教聖典』)、「自灯明法灯明」を説かれた。この「自」は「自我の分別心」でなく、「自己」を指す。エゴではなく、セルフこそが真の帰依処である。

親鸞聖人は「弟子とは釈迦・諸仏の弟子なり」(『真宗聖典』245頁)といわれた。「阿弥陀仏の弟子なり」とは、言っていないのだ。阿弥陀仏と衆生は、親子で譬えている。
だからこそ、恩徳讃では「如来大悲の恩徳〈根源〉」と「師主知識の恩徳〈具現〉」を詠っている。『仏説無量寿経』は、世自在王仏と法蔵菩薩との出遇いから説きおこされ、蓮如上人は「 世自在王仏ともうすは、弥陀如来のむかしの師匠の御ことなり」(『正信偈大意』聖典748頁)と端的に示しておられる。
ならば、やはり人格依存か。いや、違う。

諸仏はあくまでも「発遣(はっけん)」、「行け!」である。「俺をたのむな!法に依れ!」とすすめたもう先達が諸仏である。「師主知識の恩徳」である。和讃(大経和讃⑩)「弥陀の大悲ふかければ」 の左訓には「弥陀を諸仏と申す」とあるとおり、阿弥陀と諸仏は人法不二の関係である。

最も具体には「法に依れ」との金言を誰から聞くのか、ではないか。そこはもはや宿縁としか言いようがない領域だろう。


暁烏敏先生の短歌は、そのあたりの呼吸を明解に教えてくださっている。清澤先生がご西帰された折の一首である。

人によるな仏によれと教えつつわが法(のり)の師は弥陀に帰りぬ
(野本永久『暁烏敏伝』143頁)


暁烏先生は「たのむものが何もなくなったことが、弥陀をたのんだことである」とも。何か持たねば気が済まない私から、すべてを奪うのが阿弥陀であった。南無阿弥陀仏


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