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コラム・法語
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中津功師のご西帰に憶う

2020.08.22

中津功師
中津功師(09年2月了善寺本堂にて)

 

中津功師の所属寺である專福寺二階堂住職から訃報を頂戴した。法友大野まやさんからご西帰の急報を既に聞いていたが、詳細な訃報によれば7月14日に入院され治療を終えてリハビリ中だったが、8月上旬から食欲が低下し16日昼危篤になり同日15時50分にうっ血性心不全にて急逝されたとのこと。コロナ禍の最中、通夜葬儀は近親者のみで勤めたそうである。84歳寂。法名は釋悠光(しゃくゆうこう)と申し上げる。

中津先生は故郷四国での学生時代に、教師を通じて「歎異抄」に出遇い、そのご縁で大谷大学に進学され大谷派僧侶となられた。松原祐善先生に支えられ、西元宗助先生からも親しく教えを受けられたとうかがった。
卒業後は大谷派教学研究所東京分室、東京専修学院に勤務され、後に京都高倉会館館長(3か所すべて既に閉鎖)を歴任された。退職後は親鸞仏教センター(東京・本多弘之所長)の嘱託として生涯を宗門に捧げて下さった。
実は拙寺前坊守が教研分室に勤務していた折の上司であり、私の誕生はおろか、両親の結婚前を知る方であった。当時、身体を深々と折り曲げて受話器を置く中津先生の仕草に前坊守は驚いたそうだが、愚直にして真摯な姿勢は終生変わらなかった。


中津功師(09年2月了善寺本堂にて)

前述の大野まやさんが師のつねの仰せを教えてくださった。
ひとつは「(中津先生が)学生時代に提出したレポートに曽我量深先生が「過去は現在の深さ、未来は現在の広さ」と書いて下さった」ことを度々話されていたということ。
いまひとつは「なりゆく事実にまかせる」との仰せである。師の六字釈と受けとめる。

親鸞仏教センターでの会議後に中津先生と二人になった折、林暁宇先生からの言伝(ことづて)を申し上げたことがあった。かつて四国高松に土器由能(どき ゆの)さんという篤信な念仏者がおられ、『暁烏敏全集』の輪読会を自宅を会座として週3回(!)「会員は70人にも達し、週昼2回午前10時~午後3時まで、夜1回午後7時~10時までと、週3回の輪読と座談の会を、商家の婦人(土器様)が中心になって開き、時には講師を招いた法座」(林暁宇『坊主は乞食だぞ』215頁・拙寺にて頒布)が開かれていた。
昭和50年頃本山からの派遣で中津先生がその会座に来られ、「女犯偈」の法話をされた。土器さんと親しかった林先生も皆と一緒に聴聞されたという。

ある時、林先生が私に「時に中津先生はお元気かな。土器さんのところで、女犯偈の話を聞かせていただいたが、先生が丹念に深く話してくださって’素晴らしい先生がおるな’と感銘を受けたんや」と言われ、「中津先生に会ったら、どうぞお宜しく」と言伝を頼まれていたのだった。30年余り前の一座の法話の感想を述べる林先生にも驚いたが、そのままを中津先生にお伝えしたところ、瞬時に輝くような笑顔になられて「林先生はあの時のことを覚えていてくださったのですか!」と深々と体を折り曲げて頭を下げられた。
林先生は大正12年、中津先生は昭和11年生まれ。一回り以上も年齢が離れたお二人の一期一会。どことなく似通った面のあるお二人には感応しあうものがあったのだろうか。
私にとっては、この時の「光顔」と誠のこもったお辞儀が釋悠光、中津功師である。

曽我先生、金子先生らに面授の先達が次々と帰っていかれる。言いようのない寂しさは、そのままご催促であろうか。

ありがとうございました。そしてこれからもいよいよご化導くださることを。南無阿弥陀仏

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