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コラム・法語
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巨人の足跡 今夏の香草忌を終えて

2020.08.31

臘扇堂全景
明達寺臘扇堂(石川県白山市)
明達寺臘扇堂内景
臘扇堂内:正面に清澤満之師 下段右側に暁烏敏師 銘々のご遺骨の一部を納めている

8月30日(日)堂内参詣11名+ZOOM参詣26名をお迎えして、暁烏敏師ご命日記念法座「香草忌(こうそうき)」が勤まった。講師松田章一先生には金沢市内のご自宅から「臘扇堂(ろうせんどう)建立のころ」と題したご講話(約40分×2席)をライブ配信いただいた。釈尊のご生涯を「八相成道」として語り継ぎ、「御伝鈔」にて親鸞聖人のご生涯を仰ぐように、一人の足跡を辿ることは最も具体的な学びである。しかも超ド級の巨人である。

終盤の質疑応答にて松田先生が放った「自分の仏教は捨てねばならない」が最も強く響いてくださった。何でも掴(つか)んでは自分の周りに積み上げたい私に「捨てよ」と言われても絶対無理な相談である。不用品の断捨離ならともかく、「掴んでいる自分」そのものを捨てよ、とはまさに仏仕事。南無阿弥陀仏。

2020年8月30日香草忌②


臘扇堂は明達寺境内に現存する御堂であり、その建立は暁烏先生最晩年の発願「三つの願い」の一つであった。昭和29(1954)年8月20日国の内外から寄せられた浄財を基に建立された臘扇堂は落慶し歌碑除幕式と共に記念行事が挙行された。以下の画像(全て横山定男氏撮影)が語る通り、スケールアウトした群参の御仏事であった。ラジオ北陸放送が境内から実況中継!していたのだから、病床にある師の動向は実に注目の的であったことがわかる。尚、落慶式から7日後の8月27日に暁烏先生はご西帰された。齢78歳。

1954年8月20日臘扇堂落慶式 正面は同日に除幕された歌碑「十億の人に十億の母あらんもわが母にまさる母ありなむや」(暁烏敏師) 松田先生のご教示を受けて 歌碑は「人身うけがたし」=血脈の象徴 臘扇堂は「仏法聞きがたし」=法脈の象徴と頂戴する
1954年8月20日明達寺臘扇堂落慶式 導師:藤原鉄乘師 二列目中央直立姿:林暁宇師 画像右手の半そで姿の一団は棟梁と大工である
臘扇堂落慶式 ラジオ北陸放送 実況中継

『藤原正遠講話集』第2巻42㌻~に書かれた当日の様子を抜粋する。正遠師の視座は深く鋭い。

「檀家総代の方が、「法要が始まります。先生、ご導師の席に着いてください。私が椅子を押して行きましょう」と言われた。先生としては当然参列しなければなりません。ところが、暁烏先生は「いやだ」と言われたのです。私はそれを傍で見ておりました。みんな無理してご寄付を出されたのでしょう。当日はまた旅費を使ってここまで来ておいでになるわけです。何百人かの人がずらりと並んで臘扇堂の落慶法要にお参りしておられるのです。発起人であり、当日のご導師でもある先生は、そこへ車椅子で行って、一声「仏説阿弥陀経・・」とお調声(ちょうしょう)をあげなさればそれでいいのだ。・・とうとう最後まで暁烏先生は行かれなかった。なぜ先生は「いやだ」と言われたのでしょうか。皆さん、この公案をどう解かれますか」。

「いざ自分が死ぬというそこまできたら、お堂も法要も、そんなことは大した問題ではないというか、かえって自己嫌悪になったのではないでしょうか。・・私なんかなら行くでしょう。でも、あの方はご自身がそういうことをいろいろやってきたものだから、信者がたくさんあって踊り回ったようなことだったが、今臨終つきつまってきたら、またそこに出かけて行くということに何だか自分がイヤになったのでしょう。やっぱりこの、意識以前のというか、法の世界に出てきたら罪障(ざいしょう)も善悪も、そんなものもなくなって、今までは娑婆にもてはやされたことにいい気になっていたけれども、そこまできたら、そういうことがかえって恥ずかしいというか、自己嫌悪というか、そんな気になられたのでしょう。まあ、私はそんなふうに思うのです。親鸞聖人も、そういうところに安心をえられたのだと思います」。

昭和29年8月20日 病床の暁烏師を囲んで 左端:ラジオ局「北陸放送」記者 後列左:藤原鉄乘師 右隣:下村千代氏(京都大丸百貨店オーナー夫人) 右隣:(白背広姿)藤本明達氏(九州木産社創業者) 右隣:(ネクタイ姿)児玉勝利氏(眼科医・暁洋師養父) 背後:(引き戸脇・ネクタイ姿)毎田周一師 右端:西村伊三郎氏(見暁師養父)

暁烏先生の秘書である野本永久(のもととわ)女史は、師の仰せを含めて以下の通りに記している。( 野本永久著『暁烏敏伝』932㌻・大和書房 )

「わしはもう臘扇堂は卒業した。皆さんに頂いた臘扇堂はそっくり皆さんにお上げしてしまった。すっきりした」

野本女史は「万人が捧げた臘扇堂は、明らかにここに万人の一人々々の胸に返されたのであった」、「発願した臘扇堂を卒業し、世事も卒業して・・・・嗚呼(ああ)もう今度は一足飛びお浄土へ御帰入である」と綴(つづ)っている。

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