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コラム・法語
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愚問賢答-池田勇諦師「死の問題」

2021.11.03

10月17日(日)報恩講日中法話の際に、事前にお伝えしていた門信徒からの問いに池田勇諦師が応答くださいました。問いと応答をそのまま掲載します。



Q:8/22香草忌にて、幼少時に「死への恐怖・不安」、後生の一大事に突きあたり、僧侶になられたとお聞きしました。先生において死の問題はどのように解決されたのか、ぜひお聞かせください。


A:先般「香草忌」の折、暁烏敏大徳の教えに触れて、私自身は子供心に死の恐怖にかられ、「その恐ろしさから逃れる道は坊さんになるしかないと、これまた子供心に判断してこの道に入れていただきました」と申しました。

 その問題を引きずりながら、如来の救いを聞き続けておりました。如来と私とを実体視して二元論の立場での聞法でありましたから、死の問題の解決がつくはずがありません。「そうした自分が如来と我のつながりの一体感がハッキリ知らされた、目から鱗が落ちたことです」と申しました。

 今のご質問に対するご返事もこれにおさまり、尽きているのではありませんか。一つがわかったら、みなほどけるんですよ。一つがわかったけれど、これはわからんというのは、その一つがわかっていないということですよ。
 これは大事なことですよ。私は暁烏先生の教えに触れて、如来と私との関係が知らされた、そこで万事解けたということです。

 けれども、あえて言葉にすれば、私は一つの問いができると、答えを探し、解決が欲しくて手を差し出す、そんな代物です。だが私を成り立たせている如来は、私に答えや解決を持たせてくださらないということがわかったのです。

 何故か。私に持たせたら、それこそおしまいだとご覧になったのでしょう。安心して腰を下ろして、もう求めない。聞こうとしなくなってしまうだろう。それこそ、仏道が世間道に変質して堕落してしまうのがオチだろうと見抜かれていたのだと思います。如来は、何よりも大切なことを私に加え続けてくださっております。
 それは何かと言いますと、私がその問いを、問題を失わないようにと、死の不安や恐れを与え続けてくださっていることです。私はそれによって、このいのちが自我の私物でないことを一瞬知らせていただいていくばかりです。誠に貴重なご縁を与えていただいておるわけであります。

 ところがまた、そうした半面、私にはとんでもない病があらわれております。引きずっております。それは何かというと、死の恐れや不安に鈍感どころか、ケロッとしているという、居直り強盗という病です。どこまでも如来に背を向けている背信の私-と申し上げる他はありません。

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