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コラム・法語
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暁烏敏師「葬儀の記録」(『暁烏敏全集』第25巻485頁より抜粋)

2020.05.26

昭和29年8月27日午前7時25分。香草院釋彰敏。78歳にて西帰。
本サイト「十方恒沙の諸仏」に横山定男氏撮影の葬儀の写真を掲載していますが、その詳しい説明としてご一読ください。写真と記録から浄土真宗の葬儀は僧伽(サンガ・念仏共同体)の葬儀であり、そのことを見失っては葬儀が葬儀にならないと知らされます。
「暁烏先生は著名な高僧だから・・」ではなく、南無阿弥陀仏の聞こえる時、形式は家族葬であっても内実は血縁を超えた僧伽の葬儀に転ぜしめられます。かつて林暁宇先生が「下手な説教(法話)なんかせんと、真宗の葬儀の意味を伝えるお葬式をしっかりと勤めていればそれでいいんやぞ」と言われていたことを憶います。

1954(昭和29)年8月28日暁烏師葬儀。火葬場。

(8月28日)出棺 午後五時二十分。
勤行、焼香が終ると、予ねて明達寺(みょうたつじ・暁烏師の自坊・石川県)門弟一同により用意された花束が参詣人一同に手渡された。これらの人々は花束を手に手にお棺の後に続き火葬場までの村道を埋めた。
本堂内の勤行中、激しい勢いで襲った俄雨(にわかあめ)は、出棺寸前にぱったりと止み、盛夏とも思われぬ雨後の涼風の訪れは目のあたり奇瑞を見るの思いであった。


葬場到着 五時四十分。
お棺を火屋(ひや・火葬場)に納め、喪主以下松明(たいまつ)にて点火の式を行い、
後焼香。終了 六時十分。
西村見暁師の発声で恩徳讃(おんどくさん・親鸞聖人御作「和讃」の一首)唱和。三々五々と帰りゆく中に、なおも名残を惜しむ人たちが葬場に立ちつくした。やがて準備終わり、点火を促された野本さんは遂にこれを受けず、柴田暁青代って松明を執り火屋に点火。
時に六時四十分。
居合わせた人々の口から期せずして発せられる念仏の声。火は忽(たちま)ちに火屋の前面に燃えうつる。
村人(北田氏)の手により扉は完全に閉じられ、かくて先生の肉体は永遠にこの地上から影を消されたのである。
西村見暁師の発声で「嘆佛偈」。
「短念仏」の声は容易に止もうとはしない。


「先生・・・・・・さようなら・・・・・・」


 突然、腸(はらわた)を絶って絞り出た野本(永久・のもととわ秘書)さんの一声
-それを機に耐えに耐えて来た涙はどっとせきを切って溢(あふ)れ出る-

あちらにもこちらにも起る慟哭(どうこく)の声。
火屋を洩(も)る火の音がいよいよ激しい。
人々は帰ることを忘れて立ち尽くし泣き尽くした。
「では帰りましょう」
西村見暁師のお声に促されてなおも去り難い思いを後に残しつつ帰途についたのは七時三十分。
既に暮れ始めた道を歩む人々の口からは遂に言葉は発せられなかった。

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