【開催報告】6/8(日)臘扇忌が勤まりました
2025.06.09

釋尼敬愛 谷本ケイ子法姉( 2024年10月16日76才西帰)からいただいた紫陽花です
「島﨑先生の姿に遇うだけでいいわ。やっぱり「姿勢」だねぇ」と言われていました

6月8日(日)14時~17時、臘扇忌が勤まりました。
島﨑暁民先生は、「苦」 清澤満之先生の手紙―正岡子規『病牀六尺』(びょうしょうろくしゃく)より と題してご説法いただきました。
病苦にあえぐ正岡子規は『精神界』の読者でした。清沢先生と実際にお会いしたことはなかったようですが、浩々洞にいた暁烏敏師が根岸に暮らす正岡子規を毎月訪ね、子規の求めに応じて読経をしています。
子規は新聞に「病牀六尺」と題したコラムを連載しており、病苦を吐露する子規に読者「本郷の某氏」から手紙が届きます。子規は、その手紙を自らの所信に通じるとしてコラムに転載しています。
「本郷の某氏」としか書かれていませんが、西村見暁師が「某氏は清澤満之である」と見いだされ、そして新聞記者時代に暁烏総長から清澤先生の教えに学ぶように言われた司馬遼太郎氏も同様に主張し、現在では定説となっています。
その「清澤先生からの手紙」には、病苦にあえぐ子規に対し、三段階の教示が書かれています。
まずは「天帝または如来とともにあることを信じて安んずべし」。しかしそれを信じることができないならば「現状の進行に任ぜよ、痛みをして痛ましめよ」、つまり事実に任せよ、と。そして「右二者共に能わずとならば号泣せよ、困頓せよ、而して死に至らむのみ」と。
島﨑先生は最後の「号泣せよ、困頓せよ」こそ、これがなければ自分にとって救いにならない、老いていく中で度々の入院を経験し、苦しい時は苦しいだけ、「文句はないけど、つらいわけや」と告白されました。そして気が狂おうとも、自ら命を絶とうとするのも、決して責めないのが清澤先生の教えだ、と。


その後に毎田周一先生の『雑阿含無常経讃仰』を引用され、「色は無常なり、無常なるは即ち苦なり、苦なるは即ち我に非ず、我に非ざれば亦我所に非ず」を通して、島﨑先生は「はじめに苦あり、如何せん」が阿含経、つまり仏教の核心と教えてくださいました。そして「無我」を「非我」と言われているところに甚深の意味がある、「非我」なるがゆえ、「死にたくない者が死なねばならぬ」のだ、そこに我をして我たらしめているはたらきは何かとなり「他力」が出てくると、ご自身の受けとめを示されました。
池田勇諦先生が「信心、安心といっても「非」の一字である」と仰ること、松原現筌師(まつばらげんせん・武生浄秀寺)の仰せ「仏法はそうでないということを聞くんである」(小山貞子聞書)とも重なり、「非」の一字が際だったご法話でした。
さらに「国家観(道徳観)」として、聖徳太子、親鸞聖人、清澤満之先生、暁烏敏先生、それぞれの受けとめを語り、特に清澤満之先生『臘扇記』中の「道徳ありて、而して後、社会あり。社会ありて、而して後、道徳あるにあらざるなり」「憲法抔(など)は、彼の条件の顕著なるもの也」、『有限無限録』の「公の為にせよ」を取り上げました。「公の為にせよ」は、決して個を押し殺す方向でなく、島﨑先生は「彼我を合せて之を云うなり。彼を捨つるは固(もと)より偏私の大悪なり。然れども我を棄つるも亦た決して正当にあらず。彼我を摂して偏せざるは公と云わざるべからず」を取り上げ、自己犠牲ではないという一点を明示くださいました。
ご法話を聞きながら、日高六郎が「滅私奉公から滅公奉私へ」と戦後日本の傾向を言いあてていることが浮かびました。国家や家への隷属からは脱却したものの、戦後においては「奉私」が自我の奴隷になっているという見解です。
国家の問題については、Zoomにてご参詣の方から質問も提起されましたので、今後議論を深めていく出発点をいただいた、今回の臘扇忌でした。
「仏教の原点に立ちかえって、浄土真宗を問いかえす」(今村仁司)という原点回帰こそ、との思いをいよいよ強くしています。南無阿弥陀仏


