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今、今の仕事を果たしてゆく(赤禰貞子)

2024.06.01

林暁宇師(1923〈大正12〉-2007〈平成19〉・真宗大谷派僧侶・明達寺衆徒・具足舎主宰)が17歳で結核に罹り、生家である北海道浦幌町の農家の離れで静養していた際、両親のもとに届いていた一冊の仏教雑誌を病床で読まれた。林先生は「暇つぶしだから、家に漫画でもあればそれを読みたかったのだが・・」と述懐されていた。
手にとった仏教雑誌『慈悲の国』(高橋常雄師主宰・聖徳会刊行)を読んだところ、響くものがあり、病苦のつらさや若くして命を終えていかねばならない虚しさを手紙に書いて送ったところ、誌上に掲載される。そのご縁から当時日本統治下の朝鮮大邱(テグ)に暮らす赤禰貞子さん(あかねていこ・1901〈明治34〉-昭和52〈1977〉・徳香院釋尼妙澄)との文通が始まる。
20歳の頃、林先生は思いがけなく結核が癒え(後に30代後半で再発 再度療養所に入所)、北海道庁に勤務。昭和24年8月、赤禰さんの強いすすめで暁烏先生のご自坊明達寺の夏期講習会に参加したことから「釋暁宇」が誕生する。

赤禰さんは強度の喘息、脊髄カリエス、130センチほどの小さな身体であり、生涯独身、定職も持てず、両親らを看取った後は極貧の暮らしだった。
上掲の一言は、赤禰さんの手記『このいのち』から頂戴した。手記だから、赤禰さんは他者に読ませるために書いたものではない。一貫して如来の大命、自らに聞こえた言葉ばかりである。

持病の喘息の発作に直面し「1分間が長い 苦しむ時」と書きつけてあったり、「身も弱い故に心も弱い故につよく生きらるる、身も心もあてにせずに」 (38頁・昭和6年・30歳)、「みんな解(わか)らんのだ、解らんということが」(同)、「弱い私と悲しむな 強い私と威張るなよ 強弱こえた私を愛せ」(10頁・昭和10年・34歳)といった金言がしたためられている。

また「みじめな自己」、「げにとりえなき己が身心」、「つまらぬつまらぬわからぬわからぬきちがいの私じゃとはっきりする」とも。

「無我とは我のみ無くするのでなく我も人も無いところに我も人もあるのだ」
「とけた世界に一つの我があるのみ」
「独りになりきったところに万人に生きられるのだ」
「独りになりきる この独りは最大なのである」
これらを29歳で感得されていることを憶うに、本願成就と煩悩成就は一つと知らされる。

近代教学、宗教哲学・・、学者が束になってもシャッポを脱ぐような、生きた響きがあふれている。暁烏敏先生、清澤満之先生の教えに生きた赤禰貞子さんの言葉は簡潔にして、深く、確かに要を教えてくださる。

晩年の林先生が広大舎(石川県能美市緑が丘・谷田暁峯師主宰・2011年10月22日谷田師ご西帰に伴い閉幕)にて、赤禰さんの法会を勤めた折、自らを「忘恩の徒」と表白されたお姿は輝いていた。恩知らずが恩知らずのままに摂取される世界があるらしい。南無阿弥陀仏

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