• 教えに遇う
  • 了善寺について
  • お墓・葬儀・法事
  • 暁宇会
掲示板
掲示板

掲示板

仏法には、明日と申す事、あるまじく候う  (蓮如上人)

2020.05.16

掲示板5月2回目

前々住上人(蓮如上人)、仰せられ候う。「仏法のうえには、毎事に付きて、空おそろしき事に存じ候うべく候う。ただ、よろずに付きて、油断あるまじきこと、と存じ候え」の由、折々に仰せられしと云々 「仏法には、明日と申す事、あるまじく候う。仏法の事は、いそげ、いそげ」と、仰せられたり。 『蓮如上人御一代記聞書』103条(『真宗聖典』874㌻)


前住職(2002年1月1日西帰・69歳寂)が本堂のホワイトボードに今生の最後に書き遺した法語である。01年12月29日、『浄土論註』学習会(東京四組専福寺様)に出かけ、自らが発表を担当。その晩の忘年会の三次会の席で倒れ、救急車で搬送。集中治療室で二晩を経て、元旦午前3時12分に西帰した。学習会そして三次会まで参加していたのだから、本人も家族も予期し得ない突然の西帰であった。法語を身をもって証したのだから、まさに以て瞑すべしである。


冒頭の「仏法には」は、「仏教というカテゴリーでは」という意味ではない。「古今東西例外なく」とか、「そう思えても思えなくても、変わることのない真実は」と読みたい。存在の事実は一息一息だと。

蓮如上人は、さらに「いそげ、いそげ」と釘を刺す。さて、何を急いだらいいのだろう。ローンの返済か、地震対策か、あるいは夕飯の支度か。そこで蓮如上人は「仏法の事は」と、忘れたままで手つかずの最優先課題をお示し下さる。

人生百般から、そしてわが身から「いそげ、いそげ」と大音声で喚(よ)ばれ続けている。その声が耳に届いた三味線婆ちゃんいわく「弥陀の喚ぶ声、聞こえぬか」。諸仏の発遣である。南無阿弥陀仏

一覧へ戻る

真宗大谷派 東本願寺

真宗大谷派(東本願寺)西恩寺

加賀福祉会

浄土真宗の法話案内

響流書房

ページの先頭へ