無仏の世界を生きていくかいや(藤原鉄乗)
2021.01.01
新たな一年が始まりました。
厳しい年の初めに藤原鉄乗(ふじはら てつじょう)師の仰せを掲げました。
半世紀前のこと。
島﨑暁民師が金沢で建設会社を経営していた当時、受注予定の某工事の入札にて当時の業界慣行を破った競合他社に仕事を横取りされ、失意のどん底のまま、ぼろぼろの身心を引っ提げて鉄乗師を訪ねた時のこと。
玄関に出た正遠(しょうおん)師は「奥に居るよ」と老僧鉄乗師の居場所を指さした。奥に進むと火鉢の前に鉄乗師が坐し、湯がたぎっている。憔悴した表情の島﨑師を招き入れ、黙って茶を差し出してくださった。事情を尋ねられることもなく、また愚痴をこぼすのでもなく、互いに無言が続いた。しばらくして「これで失礼します」と島﨑師。帰り際に玄関で鉄乗師が放った一言が「無仏の世界を生きていくかいや」であった。島﨑師はその仰せは「無仏の世界をひとりで生きていくかいや」という雰囲気だったとも。
その仰せを背に、山門を出てバス停に向かった。視線を感じて振り返ると、降りしきる雪の中を瞑目合掌して見送る鉄乗師の姿が目に飛び込んできた、と島﨑師から聞いた。
『浄土論』菩薩荘厳の結びに「四つには、彼れ十方一切世界の無三宝の処において、仏法僧宝の功徳の大海を住持し荘厳して・・」とある。「有三宝の処」ではないことに目を瞠(みは)る。それもそのはず「無三宝の処」とは他ならぬわが身であろうか。 南無阿弥陀仏