癒しの路から自覚の道へ(池田勇諦)
2023.12.01
真宗大谷派婦人会発行「聞法日めくり」より
「癒(いや)しの路(みち)」、そして「自覚(めざめ)の道」と並記してあるが、「癒し」は安らいだ心境であり、「自覚(めざめ)」は眠りから覚めることである。前者の「路」は「小路」であり、後者の「道」は「大道」を意味する。
仏教と聞くと、心境の領域と捉える向きが多かろう。とげとげしい心が安らかな心に帰ること、あるいは大いなるものへの埋没感情に浸る時もある。寺社仏閣を訪ね、静謐な場所に身を置けば心が洗われる心地がするし、墓参りを終えてスーッとする清涼感を覚えることもある。それはそれで大切なひと時ではあろう。
だが私に深く突き刺さり、呼び覚ます力をそなえた真実の言葉との出遇いこそ、仏教である。
善導大師は「仏はこれ満足大悲の人なるがゆえに、実語なるがゆえに」(聖典216頁・仏とは自体に満足せる、一切を目覚まさんと大悲に生きる人であり、まことの言葉を説く人である)と言われる。「実語」とは人間の上に結実する言葉であろう。
私以上に私を知りとおした「実語」、たった一言に遇う。その出遇いの驚きこそ、肝心要である。
親鸞聖人は法然上人の「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」(意訳:本願の名号南無阿弥陀仏に呼び覚まされ続ける他に道なし)との「よきひとのおおせ」に遇った。それが親鸞聖人の問いとなり、求道の原動力となり、生涯をかけて悔い無き一大事となった。
本願の歴史とは、私に先立って念仏申す身を賜わった「得道の人」との出遇いとして具体化し、南無阿弥陀仏の一語に尽きることを教えられ続けていくことではないか。南無阿弥陀仏