何やらわからんけど、有難いというもんな、仏法でないわい(山越初枝)
2023.06.01
石川県小松市に暮らしていた山越初枝さんの仰せです。「何やらわからんけど、有難い」とは、感謝の心情ですから、日本人の宗教感情の典型でしょう。墓参りを済ませてスーッとする、という感覚でしょうから、それ自体を頭越しに否定しているわけではないのです。
ですが、それは人間をよび覚ます「仏法ではないわい」と。大いなるものへの埋没感情や「ちょっとイイ話」と真宗仏道との絶対的な差異です。
しかし「善」なれども・・。「何が人間を目覚ますものか、何が人間をいよいよ眠らせるものか」(池田勇諦師)との吟味に立たしめられた、山越さん一流の表白です。
『歎異抄』十六条には、「ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること」との一言がみえますが、同条は回心懴悔をとりあげている一条ですから、「何やらわからんけど有難い」ではありません。
「信心さだまりなば」「往生には、かしこきおもいを具せずして」ですから、あらゆる複雑をくぐり、計らいが破られ念仏の一道に帰した「ただほれぼれと」なのでしょう。
老媼のこの仰せは、私にとっては金言です。いつも大切な一点に引き戻してくださいます。聖典にも、経典にも掲載されていませんが、ズバリ要を言い当てています。こういう念仏者、「行証の人」を生み出すところに本願念仏の歴史があります。南無阿弥陀仏
※松本梶丸『生命の大地に根を下ろし』56頁(樹心社・絶版)