人生成就の為の仏法か 仏法成就の為の人生か(細川巌)
2020.10.01
細川巌師(ほそかわいわお・真宗光明団)のこの仰せは、2007年3月田畑正久先生が拙寺ご出講の折に聞かせていただいた。この仰せは記録よりも深く刻まれていたようで、9月27日拙寺定例法座「清澤満之師に聞く」の法話中に久々に湧いてきたので今月の掲示法語とした。急所を問うてくださる生きた教言である。
申すまでもなく、前者は仏法利用の立場、罪福信である。後者は仏法の利益そのものといただく。
昨年だったか、ある行事案内に「仏教は生きるヒント・・」云々と書かれていて、唖然としたことがある。 まさに前者、罪福信そのものである。 社会に向けてわかりやすい表現を考えたのだろう。だが仏教は「生きるヒント」程度の薄っぺらな処世術だろうか。宗派は言葉狩りとも言えるほどに、差別表現には過剰に反応するが、謗法罪には鈍感なようである。
とはいえ他人事にはできない。罪福信は私の体質そのものである。聞法していることをも他を見下す材料にするのだから、生きるヒントどころではない顛倒を知らされる。自分の為なら手当たり次第に何でも使うのだ。
仏道を歩むとは前者と後者の狭間に生涯立たしめられること。前者をやめて後者に生きるような夢が破られること。仏法までも利用する罪福信を照らされるかたちでのみ、後者の世界が到来すると私は聞く。