人間は幸福ではたすからないのだ(和田稠)
2025.10.01
「仏法というのは、人間は幸福ではたすからんのだと、我も人も世も幸福では助からんのだ、それでお釈迦様は、富を捨て位を捨て家族を捨て国を捨て、ほんとうの人間の生き方を求めて、この人間の世界を出ようと。そして真実を求めよう。それが仏法ですよ。真宗もそうですよ。親鸞聖人は、『顕浄土真実』、「真実」を顕(あきら)かにしようと。真宗は幸福を約束する宗教ではないんです」
和田稠師『世の祈り』55頁(西蓮寺選書4・1990年)
幸福を求めることしか知らない私が、浄土真宗とすれ違う理由がはっきりと書かれています。幸福を求めて何が悪い!自分や家族の平穏で幸せな暮らしを求めていることをとやかく言われる筋合いはない!と反論したくなりますし、むしろ自然なことでしょう。
実は仏法聴聞していると、仏法の特質がいつしかわからなくなり、変質させてしまうのでしょう。頷けないことも頷いた気分になり、聞きまどいには気づけないのです。阿弥陀の本願には容易に頷けない私たちだから「極難信」なのです。「極難信」を自分好みに聞き変えてしまうと、もはや仏法ではないのです。
ある時、池田勇諦師がご自坊の同朋講座にて、「阿弥陀さんは、私から全てを奪う羅刹(鬼)だ」と仰ったことがありました。「人間は自分が肯定されることが好き、否定されるのは嫌い。自分をガードしながら聞こうというのだから、わかるはずがない」。
では、どうしたらいいのですか!
「わからん自分をこそ聞いていけ!」と聞こえます。南無阿弥陀仏