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外からはなかなかとれぬ栗の実も内から破る栗のいがかな

2024.11.01

作者不詳の古歌だが、かつて真宗の説教(法話)でよく引かれていた言葉である。「内から破る」とは内発であり、「信心開発」(かいほつ)であり、「一念発起」、「能発一念喜愛心」である。私が一念をおこすのではない。一念が私を破るのである。一念こそ如来。一瞬であり、いまであり、ときである。死ぬまで自我を引きずる私だからこそ、一念が到来するのだ。

蓮如上人は「この一念、臨終までとおりて往生するなり」(聖典854頁)と、親鸞聖人は「一念というは、信心をうるときのきわまりをあらわすことばなり」(聖典535頁)と仰せである。
「とき」が生涯の折々に発起して、生涯を貫通してくださるのだろう。心境の持続でなく、ハッとする一瞬が「破」である。過去の思い出でなく、体験を誇示することも許さない「ただひとたびの回心」である。いつでもフレッシュなのだ。

石川県に暮らすある老媼から直接聞いた言葉が耳から離れない。近田昭夫先生が広大舎(石川県能美市緑が丘・谷田暁峯師主宰)で法話をされた折のこと。
「百々海さん。近田先生は「現在進行形、ING」と言われたけど、ホントにそうや。如来さまは「いま」「いま」「いま」と「いま」をつないでくださるんや」。実験結果を告白する自覚語は、言葉自体が生きている。南無阿弥陀仏

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