• 教えに遇う
  • 了善寺について
  • お墓・葬儀・法事
  • 暁宇会
掲示板
掲示板

掲示板

多数決は真理ではありません(暁烏敏)

2024.09.01

多数決は真理ではありません。真理でないものを全体に強(し)いていこうとするのは暴力行為であります」(『暁烏敏全集』20巻436頁)


自民党総裁選・立憲民主党代表選、そして米国大統領選の報道が続いている。
特に自民党総裁選は日本国の指導者選びだが、岸田総裁が誕生した3年前と全く変わらない様相である。上掲の言葉は、3年前、2021年10月にも掲示している。「多数決は真理ではありません」、固定観念を破り、ハッとさせられる金言である。

それにつけても、報道されるのは「〇と〇が会食・・」、「推薦人確保に難航・・」、「裏金返却は・・」といった政局の話題のみ。政策論争は皆無である。我々国民が未成熟である限り、日本の行方は暗澹たるものである。「堂々巡りの悪循環」を「流転(るてん)」というが、流転している私たちは流転していることにも無自覚である。国家財政は「野放図な財政 いつまで」「国債、迫る急落の崖」「英の悪夢 人ごとでない」との大きな見出しが踊る地点まできている。(8月30日付「自民党総裁選2024 リーダーの試練」)

親鸞聖人は、生涯にわたって聖徳太子を深く仰がれた。
本願念仏の教えは一切衆生に公開された仏道だが、七高僧はいずれも戒律をたもって生きられた。
一方で、聖徳太子は在家生活者、無戒の仏道を生きられた日本の釈尊(「和国の教主」)であった。インドの釈尊は城を出たが、日本の釈尊は永田町のど真ん中で「三宝に帰依せよ」―と叫んだ政治家だった。

念仏弾圧に遭遇した親鸞聖人は、真理を踏みにじる国家指導者に対して、公なる憤りを明確に表明されている。また手紙には「朝家の御ため国民のために、念仏をもうしあわせたまいそうらわば、めでとうそうろうべし」(『真宗聖典』第1版569頁)とある。この「ため」とは、仏法ひろまるほかに真の安穏なし、との見開きを国家指導者や世の人々と共有したいとの目的を指すのではないか。念仏は私的救済手段にとどまらず、「真の公共事業」だと。

キーワードは「公け」=パブリックであろう。
『十七条憲法』15条に「私を背きて公に向(ゆ)く」(聖典①966頁)とある。かつては滅私奉公の文脈で読まれていたが、暁烏先生は戦前から「自力の心をふりすてて弥陀をたのめ」と読みとっていた。生きるとは、そもそも「公務」なのだ。真理を根本基盤とする日本国、真の法治を願った親鸞聖人を憶う。南無阿弥陀仏

一覧へ戻る

真宗大谷派 東本願寺

真宗大谷派(東本願寺)西恩寺

加賀福祉会

浄土真宗の法話案内

響流書房

ページの先頭へ