幻と闘うな お前が闘っているのはお前が勝手に作った幻じゃないか?(不詳)
2026.02.01
茨城県那珂市上宮寺様(本願寺派・二十四輩 第十九番 明法房弁円開基)に伺った折、お斎を片付けようと席を立ったら、広間の裏手に掛けてあった言葉が目に飛び込んできました。
鷲元前住職に訊ねると、「さぁ・・・・誰の言葉だったかなぁ・・忘れた・・」とのこと。「忘れた」と言われて、如来の大命なのだから、聞こえた言葉なのだから、「誰の言葉ですか」と訊ねた私の鈍さがあらわになった次第です。
「妄念はもとより凡夫の地体(じたい)なり。妄念の外(ほか)に別の心もなきなり。臨終のときまでは、一向(いっこう)に妄念の凡夫にてあるべきぞとこころえて念仏すれば、来迎(らいこう)にあずかりて蓮台(れんだい)にのるときこそ、妄念をひるがえしてさとりの心とはなれ。妄念のうちより申しいだしたる念仏は、濁りにし(染)まぬ蓮(はちす)のごとくにして、決定往生(けつじょうおうじょう)うたがい有るべからず」『横川法語(よかわほうご)』伝源信和尚(聖典㊀961㊁1151)
妄念を無くす救いでなく、妄念を妄念と知らせるのが仏の正念、すなわち南無阿弥陀仏である。
ある老媼いわく、「そのままを見ておらんお前がおるだけや」。「お前=汝」を照らす光を仰ぐ老媼は、「この一言が聞こえると、ああそうやったと手が打てる」と光を讃嘆していた。南無阿弥陀仏















