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念ぜられて花ひらく(林暁宇)

2024.01.01



新たな一年が始まりました。

林暁宇先生は、生涯寺を預かることもなく、綾子奥さまとお二人で、ひたすらに「坊主は乞食だぞ」(暁烏敏師)の一言に生かしめられたご一生でした。
坂村真民先生(詩人)とも交流があり、「念ずれば花ひらく」は多くの人に愛されている金言ですが、林先生は「念ぜられて花ひらく」と聞きあてられました。

親鸞聖人は「行者が回向する」との経言を「如来が回向したまえり」と拝命されました。「行者」から「如来」に主体が転じた、たったこれだけの違いが師法然と二人で成し遂げた驚天動地の仏教革命でした。

坂東性純先生の仰せを記します。

「こういうことを詠われた詩人があります。「念ずれば花ひらく」と。そうすると、こちらが念じたために花が開いたということです。人の行いがさとりの花を開かせるきっかけになると受け取れます。
そうしましたら、暁烏敏先生のお弟子さんで、林暁宇という方が「念ぜられて花ひらく」とおっしゃいました。数年前に浅草公会堂(東京教区「同朋大会」)でお話を伺った時に、確かそうおっしゃいました。「念ぜられて花ひらく」と、おっしゃいました。・・人が宗教的な世界に目覚めさせられるのは、何らかのはたらきかけです。心のはたらきかけを受けて、そして花ひらく。目覚めさせていただく。これは自然(じねん)なのです」
(坂東性純『道を求めるということ』真宗大谷派東京教区「開心選書」①/頒価500円/在庫未確認/真宗会館03-5393-0810)


今年も共に聞思の道を。南無阿弥陀仏



※「坊主は乞食だぞ」は、僧侶の道を選んだ林茂青年に向けた対機説法です。 我慢を強いる趣旨でも、緊急援助を批判する意図でもなく、一切がおあたえとの見開きを促す、不足と要求ばかりの私を照らす仰せです。
僧侶のみに対する戒めでなく、暁烏先生は「給料取りならば泥棒、おあたえとして頂戴しているならば乞食。誰もが泥棒か、乞食のいずれかだ」(趣意)と喝破されています。
世界が持続可能社会に舵を切る中、節約や効率を超えて、この視座は異彩を放ちます。

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