教えはどこにあるのか(一楽真)
2024.10.01
「教えはどこにあるのか」。自問してみます。
さて自分から、どんな応答が出てくるでしょうか・・。
「お寺にあるでしょうね」、「仏の教え・・?俺には関係ない」、「大谷大学には教学者や研究者がたくさんいるでしょうから、そこにあるでしょ」・・。
一楽先生は「聞いた者の上にある」と言葉を続けています。ですから掲示板には「教えはどこにあるのか 聞いた者の上にある」と書きました。
「耳の底に鳴り響いています」と言い得る念仏者が誕生する他に、教えが教えになる時はないのでしょう。仏像も経典も「何でも鑑定団」で品評され、観光資源になり、文化遺産となる限り、「 釈迦の遺法ことごとく/龍宮にいりたまいにき」(「正像末和讃」『聖典』①500頁)です。釈尊を目指す「人間からの仏道」=釈迦教は図書館に並ぶだけの骨董品になってしまった、と親鸞聖人は詠っています。釈迦教の衰退、弥陀教の興隆といわれますが、教えに生きる人が生まれているかどうかに尽きるのですから、自分自身に話は戻ります。
今年の報恩講も近づいてきました。
「徳音(とくいん)は、はるかに無常の風に隔つといえども、まのあたり実語を相承血脈して、あきらかに耳の底にのこして、一流の他力真実の信心いまにたえせざるものなり」(『御文』①806頁)。
いま、聞こえている教えが、いま、私を救うのです。南無阿弥陀仏