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道は未知である (藤本明達)

2020.07.02

暁烏先生のご自坊の寺号「明達(みょうたつ)」をそのまま法名とされたほどに縁が深かった九州の実業家藤本明達氏(九州木産社)の言葉である。
以下、毎田周一師の聞書(ききがき)である。



「藤本明達氏がいわれた。- そうです。誰も私たちに懺悔(さんげ)など出来ないのです。念々称名常懺悔といわれるのは如来が私たちに代わって懺悔して下さるということです。称名がそのまま懺悔なので、私たちが懺悔するのではありません、と。


藤本氏は又こういうこともいわれた。- 二三日前にふと気付いたのですが、「道」は「未知」であると。


未知ということに気付いて、全身をあげて勇躍前進するとき、生命飛躍の尖端(せんたん)に立つとき、それが道であると。未知ということは探求ということ、学ぶということ。未知の未に未来の意味があり、未来に望みを抱いて、現在の自己を恃(たの)まず、これを打ち捨て打ち捨てて前進する趣があること。未知が道であるとは、直ちに精進を意味すること。このように私は藤本氏の言葉を領解した。未知と道とは単なる語呂(ごろ)合わせではない」。

(『毎田周一全集』第7巻382㌻)

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