「危険」
2024.02.02
「(務台理作)先生のお話をきいて、「クザヌスの無知の知とは成程(なるほど)そういうことであるか」と解(わか)ったり覚えたりするならば、それは一つの教養を身につけて偉くなってゆくということになる。変なことになる。
我々の話の聞き方はそういう危険をもっている。
無知の知が本当に解ったらこんなことが解ったというのでなく、自然に頭が下がる筈である。無知の知という深い自覚は、真に私達を謙虚ならしめるものでなければならない。無知の知というとき、自分の無知の知の前に頭が下がるという処に留まるべきであって、無知の知を知ったというのでは、少しも無知の知ではないのである。ファウストは無知の知について知ったのではなく、真に無知なる己を知ったのである。哲学、法学、医学さては神学、あらゆる学問を見につけた時、真に何も知らないことを悟った。ここにファウストの新生が始まったのである」
『毎田周一全集』第7巻「永遠に女性なるもの ファウスト序説」10頁
「危険」に気づかないことが、最も「危険」だった。対象知を増やすだけ、頭はいよいよ上がる一方で息苦しい理由を教えていただいた。
蓮如上人は 「八万の法蔵を知るというとも」(聖典833頁) と仰せであった。南無阿弥陀仏