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コラム・法語
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11/17訂正「蚯蚓覇一穴」暁烏敏師

2020.11.15

暁烏敏筆「蚯蚓願一穴」
暁烏敏筆「蚯蚓願一穴」

願念寺様(石川県)から「暁烏先生の書があるのだが読んでもらえないだろうか」とのご依頼があった。師の筆は自由闊達であり、書の世界でも別格の評価がなされている。
かつて北大路魯山人が開いた伝説の料亭「星丘茶寮」の支配人を務めた目利き秦秀雄(井伏鱒二の小説『珍品堂主人』のモデル)がその書に接した感銘を次のように記している。(季刊『銀花』1971・第6号)

「これが字か。この自由奔放、あらゆる規格制約を脱却しきった書は、どこの誰にも見ることができぬ書体であろう。ここにはよからんと図るたくらみがない。上手とか笑われまいとか、ほめられようとか、寸分の構え心がない・・まったく上手な字ではない。だが、どうしてこのたどたどしい童心に満ちた天真爛漫な自由闊達な書が書けたのだろうか。彼には人に自分を自分以上に見せかけようとする作為のない心があった。それが求めずして発露されている」。

「私の知る限り、北大路魯山人ぐらい書の鑑賞に打ち込んだ人をほかに知らない。・・その人がいつも言っていた言葉を今ここに想起する。「右上がりの書がいけない。右上がりに書くな。右上がりは気張った書である。思いあがっているからである。自然で素直な人は右下がりになる傾向を示す」と。・・「真理を求むる者に非ず。知識を売りつける者」と今日の僧侶、牧師、教育者を評した老僧は、いつでも読書し思考していた革新者であった。彼の書が世の常の規準と異なり、彼独特の根強い個性に貫かれた書風書体が生じてきたのはいたし方ない自然の結論であった。彼はこれを書こうとして書いたのではない」。

さて、判読不能の書は、恐らくは弱視が進んで光を失った昭和20年以降、晩年の盲目の師による一幅であった。(議員ではない師が議会の全会一致で宗務総長になられたのは昭和26年1月。ご西帰は昭和29年8月27日。78歳寂)

四文字目は「一」として、三文字目は「願」・「到」・「雑」?、五文字目は「児」・「雲」?・・。初めの二文字はウーン・・困った。私はお手上げ。
金沢の松田章一先生(元「鈴木大拙館」館長・『暁烏敏全集』編集委員)に画像を送り電話にてご見解を乞うた。
「三文字目は右が「頁」だから「願」やろ。次は「一」。画像が鮮明でなく、墨の濃淡や筆運びがわからないから難しいな。実際に見ることができれば、読めるかも知れないが・・しばらく時間を貰えませんか」。「急ぎませんのでお願い致します」と電話を終えた。
5分後に携帯に着信。「今読めたぞ!蚯蚓願一穴。きゅういんがんいっけつ。暁烏先生の造語だろう。「蚯蚓」はミミズ。蚯蚓一穴を願う」。
「松田先生、経典にはミミズも説かれていますから、その意味でしょう!「一穴」はミミズの居場所、本国。ミミズに願生心がおこった。一念発起。松田先生の言葉通りですよ。「坐あり 座れば かがやきあり」です。蚯蚓(きゅういん)が蚯蚓の座に帰る。蚯蚓の成仏道です」。その場で湧き上がったことが口から出た。



11/17追記 ところが・・フェイスブックにアップしたところ、本願寺派岡本法治先生(広島仏教学院)が親切にご連絡をくださった。シェアを見たご友人が明代の言葉に「蚯蚓覇一穴  神龍軽九天 」、蚯蚓一穴を覇し きゅういんいっけつをはし・・とあるとの情報をお寄せ下さったとのこと。

再び松田先生にご連絡し経緯をお伝えした。
「そういう言葉があるならば、「願」でなく「覇」かもしれんぞ。実は当初は二文字目を「州」とみて、字典等を引いて「蚓」にたどり着いて「蚯蚓」と読めた。「願」と呼んでいた三字目の右は「月」やな。しかし暁烏先生はこんな言葉もご存じだったんやな。さすがだ。ワシらは、まだまだ勉強せんならんな」。

誤読をお詫びする。そして出典等の詳細はこれから調べるが、一文字で意味がヒラリと変わるのだろう。そして昭和11年生まれの松田先生の「ますます勉強・・」に求道の何たるかを知らされる。

尚、願念寺様に返答した折にお尋ねしたところ、この書を寄進された門徒は造園業とのこと。大地に根差して生きる門徒なればこそ、師は「蚯蚓」から始まるこの一句が湧いたのだろうか。
報恩講月に思わぬご縁が到来したこと、誠に有難うございます。南無阿弥陀仏

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