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コラム・法語
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山形にて ― 暁烏先生の足跡

2024.06.01

山形県 尾花沢市 渡会様宅にて

昨年に続いて、山形某組の公開講座にご縁をいただいた。講座終了後に尾花沢の念通寺様をお訪ねした。以前伺った際にも感銘を受けた、お内仏脇に掛けられた暁烏先生ご揮毫の木簡を拝していると、花邑ご住職が「近くの門徒宅にも暁烏先生の書があるから、今から行きましょう」と。

汝(なんじ)飯台に対(むか)ふ時我之を食ふと思ふこと莫(なか)れ而(しこう)して如来之を食はしめ給ふ也と思へ 汝衣服を纏(まと)ふ時我之を着ると思ふこと莫れ而も如来之を着せしめたまふなりと思へ ・・(中略)・・ 汝死すると思ふこと勿(なか)れ而して如来の死せしめ給ふ也と思へ
斯(か)くて汝は如来慈光のふところ(懐)のとわ(永遠)なる昌平(※平和)の春を楽むを得べし


末尾には「渡会氏」との為書きもみえる。

浩々洞同人の暁烏先生らは1903(明治36)年4月に、真宗大学丙申会からの依頼により、飢饉にあえぐ東北地方を慰問行脚されている。その際には東北に「精神主義ブーム」が起こり、日を追って参詣者が増えたという。一例として、花巻では宮沢政次郎が信奉者となり、子息賢治が暁烏先生に随行した時期もあった。
尚、1912(明治45)年9月25日には大谷派の御連枝・近角常観師・加藤智学師らと共に、多摩全生園にて、ハンセン病入所者140名の物故者追弔会を勤めている。自己の内心に沈潜することなく、自己と社会を一貫する信眼が開かれていた証左である。交通事情や時代状況を勘案すると、またハンセン病には感染力がある(※この点は誤解だが、当時の医学的知見には限界があった)とされていた時代における驚くべき行動力であり、しかも法話をし続ける行脚であったことに目を瞠る。

帰着後に『暁烏敏全集』の別巻年表を開くと、以下の通り、1909(明治42)年9月19日~10月10日〈師33歳〉、1910(明治43)年9月29日~10月21日に「山形行」「尾花沢・渡会方・念通寺方」、実に115年前に、2年にわたって先生は来られていた。全国各地で暁烏先生の書に接する機会は多いが、渡会家の一文は長文でもあり、その指し示す世界は妙趣が極めて深い。

小松の念仏者が癌を患った際に家族を集めて言われた「畳をかきむしって死のうと、大声をあげて死のうと、うら〈私〉の仕事でない。いつも如来さまと一緒におる。どんな死に方をしても心配せんでもよいぞ。ナンマンダブツ、ナンマンダブツ。みんなに大事にしてもろうた悔いのない人生だった」 を憶う。
(『父母の三十三回忌に寄せて』平成12年刊行・東守蔵 ※両親の三十三回忌に記念刊行された、両親の求道過程と金言を集めた小冊子)

「如来の死せしめ給ふなり」、一念において主体が転ぜられている。一切が法の活動である真理は、そう思おうと思えまいと、すでにそうなっている厳粛さである。だから、それを忘れて、忘れていることさえも忘れて暮らす凡夫に発起するのは、「もともとそうだった!」との発見の一念である。そこに全生命を打ち込む地平があらわれる。
「うらの仕事でない」との自力無功の発見こそ、「如来慈光のふところのとわなる昌平の春」なのだ。
南無阿弥陀仏を「有限と無限の一致」と喝破された清澤先生の教えは、親鸞聖人の自然法爾章とピタリ重なる奥深さである。阿弥陀さまとは「ご因縁さま」なのだ!南無阿弥陀仏




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