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コラム・法語
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教育の問題点

2024.05.19

法友から東井義雄先生(明治45(1912)年-平成3(1991)年・教育者/浄土真宗本願寺派僧侶)の言葉を集めた冊子を頂戴した。山陰に暮らすご長女一家を訪ねた際、記念館に立ち寄って買い求めたそうである。旅行の途次、才市(島根県太田市)の旧跡などに参拝する姿勢は、その人が何を宗として日々を過ごしているかを物語る。

冊子中に次の一節があった。

「今日の日本の教育の問題点は学問と人間の分裂ということではないか。知と行の分裂、頭と胴の分裂、ということではないか」

現代の病巣を的確に見抜き、言葉にしてくださっている。「分裂」していない両者を「分裂」させるのは、理性であり分別心であろう。
学校教育に限定されることではない。真宗の聴聞といえども、知識の習得に留まり、物知りになるだけならば実に空しい。
鎌倉時代においても、都の知識人=「洛都の儒林」は「邪正の道路を弁(わきま)うることなし」(『真宗聖典』398頁)だった。かつて林暁宇先生から「そんな言葉が出てくるのは都会のインテリの証拠。今年こそほんとうの報恩講に遇ってください」との葉書を頂戴したことが思われる。

最近、ふと気づかされたことがある。
「罪悪深重」という言葉をノートに書き意味を覚えることと、「罪悪深重」と摂取されることとは全く異質だったのだ。
前者は「頭でっかち」であり、後者は「頭が下がる」のである。
前者は「ワカル」どまり、後者は「仏に遇う」ことである。

池田勇諦先生は、次のように語られている。

「知ったこと」と「知った自分」とは関係がないということです。知っても、知った自分が何も変わらない。けれども「知行合一」(王陽明)は、知ったことによって、知った自分が変わる。だから、「主体の学」と言われてくるところです。

(「教化を課題とする教学教化」『教化研究』157号・15頁)



東井先生の言葉は実に鋭い。人間が抱える対象化の闇を照らす、光の言葉である。理性は大事だが、理性偏重は病である。自覚症状なき病気が最も恐ろしい。南無阿弥陀仏

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