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コラム・法語
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「のら」― 川崎弘光法兄

2024.08.22

今春から連絡が取れなくなっていた川崎弘光法兄が、本年2月1日に68歳にてご西帰されていたことが判明した。茨城県在住。生涯独身。30代で腎臓病が発覚、人工透析の病身を生きられた。商社に勤務、発病後は勤務先に申し出て、車通勤が可能な自宅近くの発電所関連の事務職を担当されていた。55歳で早期退職。生家は他宗の檀家だったが、仏教書を読む中で松本梶丸師(石川県白山市・本誓寺)を知り、その後に杉浦先生、林一宗先生等とのご縁が広がった。

前住時代から拙寺に参詣されておられたが、私としては、02年前住急逝後に初めて会った。私を梶丸師のもとへ連れて行ってくれた大恩人でもある。
氏は言葉への感性が人一倍鋭く、自作の詩を遺された。その背景には、詩集『骨道を行く』を刊行されていた浅田正作師(石川県本誓寺衆徒・2019年11月17日西帰・聞思院釋教行・100歳)との出遇いも深くはたらいていたに違いない。静かなたたずまい、わが身を離れてものを言わない、寡黙な「浅田さん」を氏は深く仰いでいた。


㊧2004年5月石川県明達寺にて ㊨自宅

私が勤務先を退職した直後の2004年5月、明達寺での暁烏師五十回忌法要に向かった折、羽田空港のターミナルでばったり会い、行き先も宿泊先のホテルも一緒だったことから、その時を境に距離が縮まった。
晩年は身体も不自由になりつつあったが、自宅の表札脇に「不自由の中の自在庵」と掲げていた。
近在の東西の住職、念仏者が折々に氏を訪ねていた。
「真さん、遊びに来いよ」、「コロナが明けたらね・・」と言いながら、4年ほど前に自宅を訪ねた後は年数回の電話、ハガキのやり取りだけだった。

自らを「のら(野良)」、「風来坊」と称していたが、「業風」(『論註』「一切所求満足功徳」/『解読浄土論註』㊤84頁)に吹かれるまま―との表白だろう。

「不自由の中の自在庵」とは、言葉は異なれども「完全なる自由と絶対的服従との双運」(清澤満之『精神主義』)が指し示す天地とひとつである。分別以前であり、自然(じねん)に帰ることである。自分からは近すぎて帰れない。唯一の帰る道が南無阿弥陀仏である。「不自由自在」。氏一流の表白であり、分別以前からの勅命であり、この一語がそのまま如来である。

分別心の私では聞けない/分別心の私を破って聞こえてくる/「私を肯定し、確立する聴聞」から/「私を否定し、破壊する聴聞」へと展開する/肯定はプラス、否定はマイナス/徹底して、自己を肯定する「私」であればこそ/徹底して、自己が破壊される/肯定も否定も、助かるも助からないもない/そのままのものが、そのままのわが身に聞こえてくる/最初から助かっていた。否、助かる必要もない私に気づかされる。/南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
(A氏宛書簡より抜粋・句読点ママ ※茨城県常陸太田市 本願寺派青蓮寺 藤井智住職作成『のらの念仏詩句集』所収)

「不自由の中の自在庵」の庵主とは、川崎氏でなく、実は「世間自在王如来」(『聖典』226頁)ではないか。となると、氏は法蔵菩薩の「分身」(『聖典』①110・283頁他)となろうか。

2005年7月 本誓寺(石川県白山市 松本梶丸住職〈当時〉)「虫干法会」にて
静岡から参詣された同行と共に


どうかお浄土から、我らの闇を照破くださらんことを。
・・それにしても、海沿いのあの店で、また一緒に釜めしを食べたかったなぁ。南無阿弥陀仏



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