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コラム・法語
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「わからない」

2021.07.01

近年日本経済新聞1面の『春秋』欄にくぎ付けになっている。担当記者氏の見識、問題意識が極めて深く、時に「真宗」を教えられる感が湧いてくる。



6月30日付『春秋』の一節を記す。

▲だが、安易に「正解」に飛びつく心理は危うい。「宇宙人はいる/いない」「ワクチンは危ない/危なくない」。今の段階で断言するのはカルトであって科学ではない。「わからない」不安に耐え、真理を希求する強さこそを知性という。それはまた、自然に対して私たちが無知で無力であると認める謙虚さに通じている。


「心理」と「真理」の弁別も味わい深く、 上述の「知性」を「信心の智慧」 (『正像末和讃』聖典503頁) に置き換えて読みたい。信心とは見識であり、物事の本質をブレなく見抜く如来眼である。

「智光明朗開慧眼」(『文類聚鈔』聖典410頁)と親鸞聖人は讃嘆されていた。光+眼=見せるはたらき+見るはたらき=見える一瞬の到来である。
林暁宇先生は堀口大学の歌をよく引用された。
「深海魚光に遠く住むものはつひにまなこも失ふとあり」(昭和42年宮中歌会始め)。光が届かぬ海底では、眼もおのずと退化するのである。光と眼は「見える」ことを成り立たせる二大要素である。

親鸞聖人が仰る「真実信心」は、いわゆる心境の変化や感謝の心情、人間の信仰心ではない。それとはきっぱりと隔絶される主体の獲得である。「信心は目玉のごとし」(池田勇諦師)といわれるとおり、自己と社会を知見する「目玉」の獲得、つまり真実主体の獲得であった。言い換えれば「深海魚」に「深海魚」の自覚が生ずる時節到来である。そこに景色は一変する。

清澤満之師いわく「我には何にも分らないとなった処で一切の事を挙げて、悉(ことごと)く之を如来に信頼すると云うことになったのが、私の信念の大要点であります」(『わが信念』)。南無阿弥陀仏。

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