「一言でね」
2020.06.18
網野好子(あみの よしこ)さんという九州出身の明朗快活な念仏者がおられた。訓覇(くるべ)信雄先生、長川(ながわ)一雄先生らのお育てに遇われ、生涯聞き抜かれた。古来「味噌の味噌臭きは、上味噌にあらず」というが、網野さんは「上味噌」、仏法臭くない方だった。
毎秋本山報恩講の期間中に「親鸞聖人讃仰講演会」が開かれる。一晩に2人、三晩にわたり6人の講師が計7時間余り獅子吼(ししく)される。欠かさず聴聞されていた網野さんだったが、耳が遠くなり足腰も弱って本山参りは叶わなくなった。
11月半ば、電話がかかってきた。
「今年も高倉会館(当時)に行くんでしょ?帰ってきたら、どんな話だったか聞かせてね」。
「録音をCDにして送りますよ」。三晩で六人。計七時間。報告よりもCDだ。
「CD?聞こえないし、眠くなる。帰ったら法話の内容を一言で聞かせてね。一言でね」。
「エッ!一言なんて、とても無理ですヨ」。
その時は冗談として聞き流したが、「一言でね」という一言こそ金言だった。
法敬坊順誓がいう聞法の「かど」(『真宗聖典』865㌻)、要を言い尽くしている。その意味では、聞法とは、法話鑑賞ではない。声となり言葉となった法との出遇いであり、聞こえる時の到来である。一言に尽きる。
昨年12月の自分の法話メモには 「帰命とは帰れという命令である」(毎田周一師)真実の「いま・ここ」=「一念」 、テーマは「帰命」とある。親鸞聖人は「南無の言は帰命なり」、さらに「帰命とは本願招喚(ほんがんしょうかん)の勅命(ちょくめい)」(『真宗聖典』177㌻)と拝命されている。
暁烏敏(あけがらす はや)師いわく「アンタ、おるべきところにおらんから苦しいのや」。
「いま・ここ」にいながら「いま・ここ」を喪失していることさえ知らず、背命し続ける私を「アンタ=汝(なんじ)」と喚(よ)び覚ます一声を「南無阿弥陀仏」という。
※2018年6月発行『東京六組組報』