「仏教にまつわるウソっぽさ」(亀井鑛)
2021.09.05
モヤモヤしていることをずばり言いあててくださる一語に出あった。
「仏教にまつわるウソっぽさへの反発と不信。とりわけ若く、健康な現代人は敏感です」
(『仏法聴聞六十年のいま』亀井鑛・『月刊住職』21年9月号付録「法話特集」4頁)
亀井先生は1929(昭和4)年愛知県生まれ、煙草の小売を広く手がけ、経営の一線からは退かれたが今も役員に名を列ねている。本山『同朋新聞』の編集委員を長らく務め、NHK『こころの時代』のインタビュアーとしても活躍されていた。07年春に林先生が「仏教伝道文化賞」を受賞した際には東京・仏教伝道協会での授賞式・祝宴にて同席し、帰りに拙寺に立ち寄ってくださった。毎年6月愛知県西方寺「浜風臘扇忌」(清澤満之師)でご一緒するのが常だったが、新型コロナの出現以来しばらくお会いしていなかった。齢92の大先達のご健筆に触れて嬉しく思うと共に上掲の一語に胸を突かれた。
※氏は10月23日満92歳でご西帰されました。謹んでご西帰を仰ぐと共に、これからもいよいよご照覧くださいますことを。南無阿弥陀仏
「仏教にまつわるウソっぽさ」とは、言い得て妙である。法則・道理を説く「仏教」そのものは決して空想ではなくウソであるはずがない。あるものはあると言い、ないものはないと言うのが「仏教」である。
だが仏教に縁ある者、この私がまき散らしている害毒がまさに「ウソっぽさ」だろう。「俺は聞いてるぞ!」という鼻持ちならない臭みこそ、無自覚なままに「仏教」を貶めている罪であろう。
実は02年に前住職が急逝するまで私が感じていたのも、まさにこの「ウソっぽさ」であった。「不信」どころか、嫌悪感が人一倍強く、近寄る気になれなかった。だから仏法聴聞どころか、寺とはきっぱりと一線を画してきた。
ところが20年近くを経て、今度はその私が「ウソっぽさ」を発していることをはっきりと照らしてくださった。
但し、お念仏の世界は、称えるうちに、ウソでない者に仕立てあげてくださる道では決してない。
かつて林先生に「念仏とは?」とお尋ねした際、「念仏はウソから出たまことや」との応答であった。今にして思うのだが、「出たまこと」が「ウソ」を知らせてくださるのである。
ちっとも有り難くないから、有難い。南無阿弥陀仏