「助田は助田する」(助田茂蔵)
2022.07.09
昨日の安倍元総理の銃撃事件は、今後全容が解明されるだろうが、銃撃に至らせた時代環境において、私もまた関係者の一人である。一部の報道にあるように、山上容疑者が「母親が宗教団体にのめり込んで破産した。安倍氏がその宗教団体を国内で広めた」と思い込んだ、その恨みが銃撃の引き金であるならば、なおさらである。
「民主主義への挑戦であり言語道断」とは確かにそうだが、肝心の民主主義が我々国民の意識として機能しているのかどうかが問われるし、前述の通り「宗教団体への恨み」が動機であれば、政治事件ではなかろう。銃撃しやすいから、街頭演説を狙って犯行に及んだのかもしれない。
また「桜を見る会」や「モリカケ」で元総理が影響力を失っていれば、あるいは矛先は向かなかったとも思える。そもそも公私混同は、『17条憲法』15条が叫んでいる俗諦の要であり、仏法が私心に立つ私たちに教えていることである。
明日の参院選で、いわば「追悼票」のような情緒に流れるのか、国民の政治関心を高める方向に向かうのかは未知数だが、元総理の為にも、せめて後者への起点になってほしいものである。だから棄権せずに、選挙に行こう。
どんよりした気分になる報道が続く中、福井県鯖江の助田茂蔵氏の遺文を集めた『背中―工房独語』中の一文を、以下に記す。
あらためてこの一言が、現在の私にとっての「光焔(こうえん)」として迫ってくる。南無阿弥陀仏。
「助田は助田する」という光燄は一体どこにあるのかと探し廻はらねば解らぬ程のかすかなものであったとしても、火が消えて居なければまだ幸いである。私は私の責任において私の火を消してはならぬ。これは希望でも理想でもない一念一刹那のきびしい自己反省である。