「弔辞などというものは、生ける者の傲(おご)りであります」(司馬遼太郎)
2021.09.16
8月29日付日経新聞日曜版に「弔辞」をテーマとした特集記事が掲載されていた。上掲は、その記事にあった「司馬遼太郎が大阪文壇の重鎮、藤澤桓夫(たけお)に読んだ弔辞」の冒頭である。
司馬は新聞記者時代に東西本願寺を担当、暁烏敏(あけがらす はや)宗務総長(昭和26年当時)を通して、清澤満之の教えに出あっている。この言葉には、浄土真宗が流れている。司馬が弔辞の筆を執った時、生者の傲りを照らし出すはたらきに出あったのだろう。そのはたらきを光明と呼び、如来とも呼ぶ。
懺悔(さんげ)の他に讃嘆(さんたん)無しである。だから弔辞はダメだ、と言うのではない。亡き方に出あいなおしていればこそ、向こうに眺めて論評するかのような傲りを知らされたのだろう。何とも清々しい。南無阿弥陀仏。