「愛語なるかな」 ― 老僧の表白
2025.03.20
石川県在住の嶋﨑暁民師から手紙が届いた。これまでは、ほぼ毎月、原稿用紙10頁ほどのお便りを頂戴してきた。全篇にわたり、釈尊・清澤満之・暁烏敏・エピクテタス・ソクラテス・聖徳太子・親鸞などの教言の抜き書きと師の味わいが書かれている。
私にとっては「通信教育」だが、嶋﨑師の他にも、北海道の老僧、桑名の老僧から、また各地の法友から折々にお便りをいただく。
私にとっての諸仏護念とは、折々の対機説法を聞かせていただく事実に仰がれることである。「護」とは、仏道から退転していることにも気づかぬ私に、退転しているぞ、とのご親切である。遠く親鸞聖人のご消息からも、ご消息が届いた時のご門弟の感銘の深さが伝わってくる。僧伽こそ、本願の生きた歴史であろう。

年明けから島﨑師からのお便りが途絶えていたが、久々に届いた手紙の一枚である。入院生活が「いい修行」として、看護師の「いいじゃないの」を「愛語」として領受する感受性こそ信心の賜物と知らされる。その一言を発した看護師が仏法に縁があろうとなかろうと、いつものフレーズだったとしても、師にとっては「愛語」、仏説であった。
浄土真宗は「在家仏教」といわれるが、「出家」「在家」の「在家」でなく、「仏の教えは家に在り」(林暁宇師)の意であり、観音の誓願「一生之間能荘厳」(『御伝鈔』『聖典』初版725頁/意訳:汝の一生を成仏道に転じましょう)のおはたらきと仰ぐ。病床が病床のままに道場に転ぜられるとは、まさにこういうことだろう。
暁民先生、どうかどうかご法身お大切に。南無阿弥陀仏