「最近耳にする「終活」について、どう思われますか?」
2023.06.14
先月の山形に続いて、秋田に参りました。公開講座後の質疑応答で、ある男性が次のように発言くださいました。
「最近「終活」ということをよく耳にします。終焉に向けて、身のまわりを整理しておくことは大事だと思います。が、自分に置きかえて考えてみると、それでほんとうに始末がつくのかどうか、を思うのです。財産や葬儀の希望等を書き遺すのは、それはそれで意味があります。でも物についてはそれでいいですが、この心はそれで始末できるのか。仏法の上で「終活」とは、どういえるのか。見解をお聞きしたい」との趣旨でした。
日々の暮らしの中で見聞きする時代社会の実相から大事な問題を聞きとられ、それを言葉にして問うてくださる姿勢に、感銘を受けました。真宗が生きているな、と。
終焉に向けた活動として、遺産相続の希望や葬儀のこと、あるいは知人友人の連絡先や形見分け、へそくりの在処などを書き記しておくことは大事なことです。金融機関や行政など、様々なシーンで「終活セミナー」は開かれていますし、大谷派や寺院でも、終活セミナーが開かれています。死を身近に感じる機縁を開く、という趣向なのでしょう。
私は、次のように応答しました。
「真宗の終活を蓮如上人は「後生の一大事」の一語で教えてくださっていると私は受けとめています。「後生」については、様々な受けとめがあり、特に大谷派では「死後という意味でない」という点が強調されます。
ですが、私は「後生」は言葉通りに「死後」を意味するからこそ、「今生」を丸ごと問い返す眼となり得ると聞きとっています。もちろん「後生」が問われるのは、現在であることは当然のことです。
ですが「後生」を立てねば、「今生」を豊かに、快適に、死後も混乱なく・・ということに留まります。エンディングノートを書き上げ、遺影を準備して総仕上げになるでしょうか。むしろ、そこから始まらねばならない「一大事」を仏法は教えていると思うのです。
「三帰依文」に「この身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん」(意訳:今生において仏に成る道が開かれねば、幾たび生まれ変わろうとも迷いの生を尽くすことができるはずがない)とありますが、「エッ!死後にまた生まれ変わるのですか?」という実体化ではありません。
尽きることのない生死流転を見据え、「汝の今生を永遠の迷いの最後生とさせん」と誓う如来の大悲心の表現として、私は聞きとっています。
実は、-いっぺん死んだぐらいでは始末がつかない―ほどに深い迷いなのでしょう。世間感覚とは、異質なのです。例えばロシアとウクライナの対立は、まさに「歴史は繰り返す」、堂々巡りです。苦悩の歴史に学ぶことがない、私たちの迷いの根深さです」。
ご門徒の質問によって、組内の住職方との会食の席でも「後生の一大事」が話題に上りました。
真実の終活、それは「今生」を出た「後生」を立てればこそ、「生まれ甲斐」( うまれがい・池田勇諦師/「出世の大事」)という「一大事」に目覚め、単なる「生きがい論」ではない視座が新たに聞き開かれていくことでしょう。南無阿弥陀仏