「本郷の某氏より」正岡子規
2021.01.09
正岡子規は命終の2日前、明治35年9月17日まで随筆『病牀六尺(びょうしょうろくしゃく)』を『日本』紙に連載していました。それを読んだ大谷派僧侶清澤満之(きよざわまんし)は、同じく結核の身を生きる子規の呻吟に共鳴して手紙を書きます。
「今朝起きると一封の手紙を受け取った。それは本郷の某氏より来たので余は知らぬ人である・・」(岩波文庫〈緑13-2〉『 病牀六尺』72頁)と明治35年6月23日付『日本』紙上に、 子規は受け取った手紙の内容を綴っています。
『本郷の某氏』は清澤先生に違いない-と見出したのは、西村見暁(けんぎょう)師だったと島﨑暁民師から聞きました。西村師は名著『清澤満之先生』の著者であり、愛知県碧南(へきなん)西方寺の近くに住まいし、銭湯の三助をして食いつなぎながら独力で法蔵館版『清澤満之全集』の基礎的な編纂作業を担われた方です。
清澤師に師事していた当時二十代の暁烏敏(あけがらす はや)は、明治33年9月から子規が命終する明治35年9月まで毎月または隔月、根岸(東京都台東区)に子規を訪ね、枕元で『仏説無量寿経』を読み聞かせています。(子規『墨汁一滴』)子規は同人誌『精神界』の読者でもありました。
暁烏師は「(正岡子規は)師匠清澤満之先生と、よほど似通ったところがあった。・・物堅くて、何となく威厳があって、しかも中心に暖かいところがあって、抱きかかえるという感じであった」(『ホトトギス』昭和26年4月・暁烏敏「根岸庵の思出」)と後に述懐されています。
さて、話を戻します。
手紙に書かれた満之の一文に対して、子規は「この親切なるかつ明鬯(めいちょう)平易なる手紙は甚だ余の心を獲たものであって、余の考も殆どこの手紙の中に尽きて居る」と紙上で応答します。
その一文を要約すれば、まず「如来と共にある」と信ぜよ。
それが壊れたら自力無功とさとって「ただ現状に安んぜよ」。
それも無理ならば「号泣せよ煩悶せよ困頓せよ而して死に至らむのみ」。
子規は数え36歳でこの世を去り、およそ9か月後の明治36年6月6日に清澤満之は「血を吐きながら念仏を称(との)うひまなく逝(ゆ)きませり」(暁烏敏御作『清澤満之先生讃仰』和讃)と西方寺にて数え41歳の生涯を終えます。