「汝は闡提(せんだい)である」(川瀬和敬)
2022.05.16
高田派川瀬和敬師の著書を折々に拝読しています。師には聖徳太子和讃の講義録もあり、妙味漂う筆致に教えられています。
(法蔵館から『浄土和讃講話』『浄土高僧和讃講話』『正像末法和讃講話』が復刊されています。『皇太子聖徳和讃講話』は絶版?) 浄土和讃講話 | 川瀬 和敬 |本 | 通販 | Amazon
善導大師和讃の講義の中で、一闡提(いっせんだい)について、懺悔(さんげ)について、次のようにお示しくださっています。(『浄土高僧和讃講話』122頁―)
『「闡提」は梵語、イッチャーンティカの漢訳です。輪廻の有を楽求する者、現世の永続を楽う現世主義者、仏を信ずることを拒否する者の意味です。『涅槃経』第二十六には、「一闡を信と名づけ、提を不具と名づく、信を具せざるが故に、一闡提と名づく」とあり・・』
『本願のはたらきとして、「汝(なんじ)は闡提である」と知らしめるのです。「われは闡提なり」と知ったことがひるがえりです。ひるがえさせる力をもつのは本願です。闡提を捨ておかないという大悲本願が身に沁みとおったのが回心です。回心そのものがさんげ(懺悔)となっているので、さんげを別につけ加えるのではないのです。
さんげを独立として見ますと、自己の納得できる形の気休めに終わるか、表現だけ度のきつい、自己暗示に過ぎないものとなります。念仏者の中にはそういう感情的なあやつりに陥る人を時々見かけます。
回心のひるがえりは、深いもよおしによって転ぜられるもので、沈潜したところで静かにおこなわれなければならないものなのです』
「自己の納得できる形の気休め」。
「表現だけ度のきつい、自己暗示に過ぎないもの」。
「感情的なあやつりに陥る人」。
それは単なる一人芝居であって、八百長裁判どまりでしょう。開かれることもない。川瀬師は「回心そのものが懺悔となっている」と。確かに「回心懺悔」でありました。懺悔できないという懺悔は、大悲心のはたらきによる他なく、自分で自分のヒザをつねる話ではないのでしょう。
「汝」の一字に、如来まします。如来より見たまわば、卑下も慢なり、でした。南無阿弥陀仏