「磯貝君はまだ迷っているのか」
2020.06.29
『歎異抄』第二条に「よきひとのおおせをかぶりて」(『真宗聖典』627㌻)とある。その一節について、かつて谷田暁峯師がこう言われた。「かぶりてというのは、そのままいただくということ。自分の領解なんか要らんのや」。当時は強い抵抗を感じたが、この「おおせ」こそ、金言ではなかろうか。
6月28日(日)の定例法座「清澤満之師に学ぶ」の結びに拝読した磯貝暁開(いそがいぎょうかい)師の一文を「そのまま」掲載する。去る24日に本山しんらん交流館での定例法話で拝読した折には、終わるや否や5,6人の参詣者から「コピーを貰えませんか」とせがまれた。28日に自坊で再び読んだところ、堂内の参詣者はもとより、ZOOM参詣者のあるご婦人は「聞いていて涙が出た」といわれた。翌朝には「(磯貝先生の一文を聞き)昨夜はあまり眠れませんでした」と別のご婦人からメールが届いた。
私は磯貝暁開師との面識はない。が磯貝師に師事された片野すみさん(愛知県・故人)には具足舎や広大舎、西方寺で度々お会いし、同宿し、お育てにあずかった。最後にお会いしたのは入所先の老健施設だった。林暁宇先生は「磯貝さんは、片野さんを遺してくださった」と讃嘆されていた。教化とは、どんな人が生まれたかに尽きるのであろう。
「むかし、盲目の老師(※暁烏師)に本を読んでさしあげた西洋間で休んでいるところへ、永年、先生のお世話をしてこられた野本永久女史(※のもととわ・秘書)が来られて、「いま先生が起きられたので、「磯貝さんが来られましたよ」とお知らせしたら、先生はひと言「磯貝君はまだ迷っているのか」と仰いました」と伝えて下さった。これは先生が私に遺された最後のお言葉でございます。このひと言を聞かされた私の胸の中は、涙でいっぱいでありました。私の先生は、私に此の一語を下さった先生であります。その点、どんなに人が生前中の先生を非難しようと、また、褒(ほ)めようと、私の実存においては痛くも痒(かゆ)くもない、また貴重な書物をたくさん出版していらっしゃるけれども、真実私を蘇生(そせい)させる力をもたない。此の一語を聞きえたことは、私の生涯にとって決定的に重要な意味をもっているのでございます。み言葉に賜(たまわ)るという。何を賜るのかと申しますと、いのちの感動、いのちあらしむる始源のいのちを自己として生きる私を賜るのでありましょう。
「まだ迷っているのか」で、私は先生から完全に突き離されてしまっている。徹底的に否定されている。「まだ」という語は単に過去から現在までを云うのではありません。いつまでも、永久に浮かぶ瀬のない私を指摘される。煩悩に迷い、狂う以外生きようのない、云ってみれば無価値な私を、私に宣告されたのです。また、それは「迷っているのか」が瀕死(ひんし)の病床で発せられたということは、業縁(ごうえん)が催してくれば実の父を殺し、母までも殺そうとする、あのアジャセ大王に対して釈尊が「アジャセ王の為に涅槃に入らず」と仰ったように、迷う故に見離されない。アジャセを救うまでは死ぬに死ねないという。臨終の一念に至るまで心にかけ、心に入れ、摂(おさ)めとって捨てない慈悲の心を顕(あら)わしているではないか。「速(すみ)やかに悟(さと)りの道につけ」とも、「煩悩を絶つ聖道にあゆみ、涅槃の道に努力せよ」と云った、当意的なことは何一つ仰らない。唯ひと言「捨てない」と、「いのちをともにする」と。「お前のいのちを我がいのちとする」と。
愛欲によって師を捨てたこと(※女性と駆け落ちするかたちで明達寺から出奔)を先生ははじめから知っておいでになった。私に騙(だま)されつづけておられた。そして私に教訓じみたこと何一つ云うでもなく、気の赴(おもむ)くままに任せ、放任していらっしゃった。私を信ずるが故でありましょう。私を信ずるのではない、私というくだらない、どうしようもない人間に息づいている如来のいのちを信じ、念じていらっしゃったのでしょう。このお言葉によって、迷う以外手の出しようがない私に、安心して迷ってゆける世界が開かれた。迷う私が迷い果てることで、自分を尽くす只中で、私が私であることを見透かすことができた。この賜ったみ言葉によって、はじめて私が私として生きて行ける道が明らかにされた。私が、大いなるいのちに生かされている私であったことに大きな喜びを感じたのであります。喜びはまた、私につきまとって離れない個人主義的な考えからくる孤独感の開放でもありました。肉親がいないからと云って、どうして「一人ぽっち」と云えましょう。
生の始源にはたらく大いなる心を、至心信楽欲生(ししんしんぎょうよくしょう)と誓いのお言葉であらわされます。その後半に「唯除」(ゆいじょ)云々とございますね。読んで字の通り、「ただ除く」というのです。詳しい説明は略しますけれども、深い深い生の喜びを願われた第十八願の中核に位する「唯除」の二文字が、先師の口から私に、「磯貝君はまだ迷っているのか」と伝えられたのであります。親鸞聖人は「唯除」について、「ただのぞくということばなり。五逆のつみびとをきらい、誹謗(ひほう)のおもきとがをしらせんとなり。このふたつのつみのおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべし、としらせんとなり」(『尊号真像銘文』『真宗聖典』513㌻)とお述べになっています。簡単な、味気ない表現ですけれども、聖人の内部体験にあっては、深い大悲心への謝念が渦を巻いていたと思うんです。京都から長野へと『真宗聖典』一冊をかかえ、祈るような心で聖人に救いを求めて、聖教に身をうずめるようにして遍歴を重ねてきた私には、文字の意味なり、内容の筋を通し、一応の理解はできても、最後のところ、薄紙一重(うすがみひとえ)のところがどうしても透関(とうかん・修行の障害を突き抜けること)できないもどかしさが、遂に死に追いこんだ訳ですけれども、先生が私へ身をもってお示しくださった御教訓によって、はじめて「ああ、これであったのか」と本願の心にうなずかせていただくことができた。私にとって真宗の入出二門の鍵は「磯貝君はまだ迷っているのか」という「唯除」の心にあると云ってもよろしい」。
(磯貝暁開『生きるよろこび』52‐55㌻・名古屋崇信学舎・1987)