「素人感覚が大事なんだよ!」
2022.11.15
先月15・16日に自坊の報恩講が勤まった後、各所の報恩講にご縁をいただいている。地方も首都圏も手探り状態は続いていて、座数を減らす、お斎は見合わせ、あるいは持ち帰り弁当等、様々に工夫されている。YoutubeやZoom配信を併用されている寺院も4ヶ寺あった。往時よりも参詣は減りつつも、新たな動きも生まれつつあるようである。
A寺では、配布されたプログラムの余白に来月の定例法座の案内が掲載され、誰でもお参りしやすいように・・との配慮から、「初心者歓迎!」と書き添えてあった。この一語は、実は一生を通じて「初心者」であれかし、とのご住職のメッセージかとも感じた。
故近田昭夫先生(東京七組顕真寺前住職)のつねの仰せは、「仏法聴聞は、素人感覚が大事なんだよ!」だった。つまりは「耳慣れ雀」へのご化導であり、ご自身の懺悔でもあったのだろうと今にして思う。
高齢のご常連が参詣されなくなり、今年は現役世代10名ほどの参詣だったB寺では、2席の法話後にご住職が参詣者に質問を募った。少人数でもあり誰も手が挙がらないかと思ったら、ほぼ全員が質問や感想を聞かせてくださった。求道熱が高いご住職の影響なのか、いずれも的確な発言ばかりで、こちらが学ばせていただいた感しきりだった。若い女性からは「言葉を話したり聞いたりできない人は、仏法に遇えないのでしょうか」との質問が飛び出た。単に仮定の話で訊ねている風でなく、真摯な姿勢で発言くださった。
「話したり聞いたりできないその方に、仏法が届いているかどうかは、わかりません。ですが話したり聞いたりできない方の存在が語っていることを聞く耳が私に開けているかどうか。むしろこちらの問題ではないでしょうか」。かつて聞いた廣瀬杲先生の仰せが浮かび、思わずこんな応答が出た。自らの応答に、私自身が教えられた不思議な時間を恵まれた。
C寺では小ぶりな本堂が30名ほどで満席、三方向の窓を開けサーキュレーターを稼働して安心できる設えになっていた。
こちらでも2席の法話後に、「質問や感想を・・」とご住職が呼びかけたが、沈黙が続いた。経験的にはこの沈黙が大事なようで、司会者が場つなぎで法話を要約したりすると、大概はおかしな方向に向かう。「黙忍堂」(清澤満之『臘扇記』)である。長時間の聴聞後、沈思黙考は大事な時間であり、挙手するかどうかを思い悩む余裕も必要なのだろう。
沈黙を破って、最後列の初参詣のご婦人が「ハイ」と大きな声で立ち上がって、感想を話してくださった。C寺とは30年ほどのご縁があるそうだが、お連れ合いのご西帰、お店の廃業、孤独感に背中を押されて、この日が初めての報恩講だったという。ご本人曰く「来る気もなかったし、店が忙しくて来る時間もなかった」とのことだが、この日の参詣をよろこんでおられた。「来年また来ます」と言われるので、「来年のことは、お互いにワカラナイ。来月の法話会に、あるいは毎日でも通ってください」と。
南無阿弥陀仏をとなうれば
十方無量の諸仏は
百重千重囲繞(いにょう)して
よろこびまもりたまうなり 親鸞「現世利益和讃」(聖典488)
現世利益和讃の結びの一首である。しばらくは報恩講回りが続く。南無阿弥陀仏