「自我」という故障
2022.08.05
「自我」という故障がある限り易々(やすやす)と仏法が聞えると云ふ訳はありません。口あんぐりに放心していたのでは一生かかっても聞こえない事は勿論ですが、命がけであせって見ても聞かうと云ふ求める世界を離れて、まかせると云ふ広い世界に出ない限りは中々聞こえてこない仏法であることを思ひます。
助田茂蔵 『背中―工房独語』13頁
各所の豪雨災害は痛ましい限りだが、同時に「ウチは無事で良かった」とホッとするのもほんとうのことであり、「自我」はますます健在だ。何を見ても何を聞いても、「自我」のフィルター越しであり、仏法聴聞も「早くわかりたい」ということ自体が功利心でしかないのだった。求めねば遇えないが、求めている通りに与えられるのではない。人間の要求と阿弥陀の本願のすれ違いこそ、である。
とはいえ「自我」を減らそう、無くそう、という倫理道徳ではない。「自我」という故障を見出した眼は、すでに「自我」を出ているのだ。「自我」あればこそ、光明を遮る形で「自我」は本願に遇う場所に転ぜられる。「ああ、またやっていた!」「仰せの通り」と。
助田翁ご夫妻を生み出した北陸は、やはり押しも押されぬ「真宗王国」である。親鸞聖人ご流罪以降の、あるいは蓮如上人以来の土徳は、一朝一夕では真似できない深さだ。日本海と厳しく長い冬が育んだ気質でもあろう。
その一例がこの一文である。こういう念仏者を生み出してきているのだ。時代背景がどれほど変わろうとも、現代においても、この深みは光る。
「一日も早くその耳が間に合わんようになって下さい」とは、人知と仏智の絶対の乖離を知ればこそのご親切である。世界に誇りうる日本人の至高の精神である。浄土真宗は、やはり「機の深信」に尽きる。南無阿弥陀仏