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コラム・法語
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「鼻たらしのばあやが、南無阿弥陀仏というているところが浄土真宗である」

2020.06.06

清澤先生の終焉の部屋です
清澤満之先生 終焉の部屋(2畳・西方寺)

昭和26年3月25・26・27日金沢崇信学舎にて五十回忌法要が勤まった。その折の暁烏先生(75歳・当時真宗大谷派宗務総長・3年後にご西帰)のご法話「清澤先生の信念」が『暁烏敏全集』第19巻に収められている。
法話では「浄土真宗」と「他宗」の差異が語られている。実に簡単明瞭な決判であるが、ここでいう「他宗」とは、他の宗旨を貶めている意味ではない。「汝は浄土真宗ではないぞ」という師一流の皮肉であり懺悔である。
親鸞聖人もまた「よしあしの文字(もんじ)をもしらぬひとはみな まことのこころなりけるを 善悪の字しりがおは おおそらごとのかたちなり」(『真宗聖典』511頁)と詠っておられたことを憶う。


『自分は今まで、有限粗造の思弁、限りある経験的な知識をもって無限絶対の実在を論定せんと企ててきた。私らの知恵には限りがある。この限りあるもので、限りのないものを定めようとしてきたのである。で、真理の標準や善悪の標準というようなことがわかるものだと思うてきた、といわれる。『清澤全集』の第一巻を見ると、盛んにこれをやっておられる。「真理の品階及び検定法」という論文などもあります。カントやヘーゲルがやったように、(清澤)先生も盛んにそれを試みられたのである。ところが先生は、それは無謀であった、そんなものはわかるものではない、ということがわかった。そこで初めて「愚痴の法然房」とか「愚禿の親鸞」とかおっしゃったことが尊いなと思うようになった。自分も無智を以って甘んずることが出来るようになったといわれる。加賀言葉で「だらじゃな」ということがわかるようになったといわれる。南無阿弥陀仏とは、だらじゃなということがわかった者の口から出る言葉です。私はいつも言うのですが、鼻たらしのばあやが、南無阿弥陀仏というているところが浄土真宗である。気の利いた顔をして講釈しているのは他宗である。講釈の要らぬようになったのでなくて、できなくなるのである。しかし言うだけは言わぬと仕方がない、議論もよし、研究もして、大づまりがわからなければいけない。議論をしたって、ろくなことはわからないけれども、わからぬということがわかってくればそれでよい。だからやれることだけやるがよい。清澤先生は、わからぬということのわかった人です』

(『暁烏敏全集』第19巻620頁)

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