• 教えに遇う
  • 了善寺について
  • お墓・葬儀・法事
  • 暁宇会
コラム・法語
コラム・法語

コラム・法語

から念仏/まことによろし/いつの日か/からはすたりて/まことはのこる(藤原正遠師)

2023.07.02

過日、ある先生のご講義を拝聴した。「親鸞聖人の南無阿弥陀仏理解」とのレジュメを追って、丁寧に教えていただいた。特に17願諸仏称名の願を中心に、語ってくださった。講義では善導・法然における行の主体は「衆生」だが、親鸞に至って行の主体は「諸仏」になると教えてくださった。

ところが「諸仏称名」と聞くと、何故か「衆生は念仏申してはいけない」というニュアンスで聞きとってしまう傾向があるようで、質疑応答では「正しい念仏、ホントの念仏とはどういうことか」という切り口が多かったように聞こえた。心境も回数も声の大小も聴聞のキャリアも理解度も一切不問。この口から出る念仏が「諸仏称名」でなければ、われらに救いはないのだ。
疑問はすべて大切だが、様々なやりとりを耳にしながら浮かんだのは上掲の一首であった。

「口先だけの空念仏しか出ません」というが、「空念仏」と「実の詰まった念仏」とを何を基準に分けているのだろう。はたして分けられるのだろうか。

定散(じょうさん)自力の称名は/果遂(かすい)のちかいに帰(き)してこそ/おしえざれども自然(じねん)に/真如の門に転入する(大谷派『聖典』484頁)

この和讃には左訓(さくん・親鸞聖人による註釈)がつけられている。
「自力の心にて称えたるおば、つひに果たし遂げむと誓ひ給ふなり」、法蔵菩薩は「たとえ自力の心で申す念仏でも、汝は自力に立っているぞ!と目覚まして摂取せん、必ず果たし遂げる」と自らを賭して誓われた。念仏に帰してもなおウロウロすることを見通して、第二十願は誓われたのだ。

まず念仏申す。この一事は永遠に不動である。南無阿弥陀仏

一覧へ戻る

真宗大谷派 東本願寺

真宗大谷派(東本願寺)西恩寺

加賀福祉会

浄土真宗の法話案内

響流書房

ページの先頭へ