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コラム・法語
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なつかしき人

2025.08.21

高光大船(たかみつ だいせん)師
1879(明治12)年―1951(昭和26)年 
石川県専称寺住職・加賀の三羽烏の一人
横山定男氏撮影 ※転載厳禁



先日、北海道の某寺に頼まれて、港区在住の門徒家族宅のおわたまし(お内仏を迎えた祝いの法要)にお参りした折、同世代でもあり、私の前職とも関係する不動産投資を手掛けている方でしたので、 初対面にもかかわらず話が弾みました。
その中で、世の中が便利で快適になり、また新型コロナのパンデミックも相まって、対人関係が希薄になってきた―との会話の中で、「心底本音をさらけ出せる間柄が一人恵まれれば、それが至福なのでしょうね」と申したのでした。

『暁烏敏全集』第25巻を読み返しています。師が1951(昭和26)年宗務総長在任中、「九月十五日、久しく病床に在った高光大船君が往生せられました。享年七十三才、私は五十年余り信心の交わりを続けてきた友人を先立て、感慨無量であります」と法友高光大船師の西帰について、自坊明達寺から刊行していた月刊『同帰』昭和26年10月号に一文を草しています。さらに11月号にも「なつかしき人」という題で大船師の追悼文が掲載されています。その一文の結びが深く響いてきます。

しかし、念仏のもとに終日語り会うことの出来るのは、念仏者の幸福である。あのギョロっとした眼をして人をにらむ時には人をふるい上がらせたものであるが、私はいつも同君の童顔を見てよろこんでゐた。ろくに挨拶もせず、今日は(こんにちは)、といって入って来て、さいなら、といって出てゆく親しい友達がこの世になくなったのは淋しいことだ」(『暁烏敏全集』25巻266頁)

「今日は、といって入って来て、さいなら、といって出てゆく」とは、まさに人の一生そのものです。そのわずかな時の中で、誰に出遇うかがその人の生涯を決めます。出遇った人、言葉、出来事が、私の一生を形づくるのです。

弔歌もまた素晴らしいのです。

真面目にて横着と世に思はれし高光大船はなつかしき人

よく怒りよく涙せし人なりし好きと嫌ひの明らかにして

法悦の外に徳無き我が友は心豊かに葬られゆく

明らかに好きと嫌ひを色に出して勇ましく世に生きてゆかせり

世を捨てて世に捨てられてなほもまた世に生き抜きし奇しき人はも


仏まします、法ましますは、僧伽(さんが=念仏者の共同体)によってのみ、証されます。南無阿弥陀仏

横山定男氏撮影 ※転載厳禁




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