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コラム・法語
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アンタ、いったい何しに来とるんや

2020.05.10

 思いがけず寄稿のご縁を賜った。このコーナーのタイトルは「私の琴線に響いた言葉」とのこと。言い換えれば「汝にとってのよきひとの仰せを一言で示せ!」となろうか。さすがは真々園。ど真ん中の直球をいきなり投げてくださった。門外漢を土俵に上がらせて下さるお育てを拝することである。


 さて上掲の一言は、林暁宇先生(2007年西帰)の仰せである。私にとっては、常に新しく響く言葉である。というよりも琴線を持ち合わせていない私の琴線そのものになってくださっている言葉である。ある日のある場面における私への仰せだが、その意味することは決して私事にとどまらない。私事どころではなく、最も開かれた公けなる世界からの音信と拝している。


 石川県白山市の真宗大谷派本誓寺では、7月下旬の四日間に宗祖のご真筆をはじめとする寺宝を公開しつつ、連日諸師の法話が上がる「虫干し法会」が勤まる。前住職松本梶丸師ご健在の頃、法友に誘われて私も数年にわたりお参りしていた。

 その法会は毎日午後3時には閉会となるのだが、その後にはきまって近在(能美市鍋谷)に暮らす林暁宇先生のもとへ向かっていた。私としては、小泉宗之師から、また谷田暁峯師から、異口同音に‘要のお聖教’と聞かされていた歎異抄第二条について、とにかくその意を知りたかったのだ。だから相手をしてくださる林先生に向かって、連日愚問を発してはいわば個人レッスンをせがんでいたのだ。明日は帰京するという三晩目のこと。差し向かいで夕食をいただきながら、先生はふと言われた。

 「毎日毎日ワシのところに来とるが、アンタ、いったい何しに来とるんや」。文字にすると厳しい詰問のようだが、実際は猪口を口に運びながら、微笑しながらのやんわりとした響きであった。

「・・・・」


 不意打ちの問いかけ。たった今まで質問攻めにしていたのに、何も応答できない。東京から石川県まで、時間を割きお金をかけて身を運んでいるのだから、無目的であろうはずはない。しかし何も出てこないのだ。「答えるべきものがなかったからではありません。有り過ぎたからであります」という西村見暁師の一言に後に出遇うが、その時にはそれどころではなかった。

しばしの沈黙の後、林先生は笑顔のままに「ひとえに往生極楽の道を問い聞かんがためやろ」と仰った。三日間にわたり云々していた第二条の一節である。

人間に「ひとえに」はない。「アレもコレも」はあっても、真の純一はない。「ひとえに」こそ、如来の一向一心。私に成り代わって、一大事を言い当ててくださるのだ。

 「アンタ、いったい何しに来とるんや」。

 実は出世本懐を問うてくださっている言葉ではないかとの感しきりである。

百々海真(港区了善寺住職・49歳)

2015年2月『真々園だより』(東京都豊島区)寄稿

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