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コラム・法語
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ソクラテスの教育法

2020.06.30

6月28日(日)14時~16時定例法座『清澤満之師に学ぶ』にて、参加者と共に「教育者」としての清澤先生に学んだ。

親鸞聖人の和讃に「護持養育たえずして」(『真宗聖典』508㌻)とあり、また「お育てにあずかる」とも称する通り、聞法とは如来の智慧に聞き学ぶ如来の教育である。池田勇諦先生が「寺参りと言わず、「生涯学習施設に行く」と言ったらどうか」と仰るのは決して冗句ではなく、伝統の本流である。

清澤先生がソクラテスの教育法をして「無一物の師、無邪気の弟子、問難往復以て事理を討究する、是れ開発的教育に至当の方法たらずや」(岩波版『清澤満之全集』第7巻267㌻)と言われたことは名高い。一対一の問答対話であり、「注入」ではなく「開発」である。「無一物の師」に清澤先生、「無邪気の弟子」に門弟暁烏先生が重なってみえてくる。

明治33年、数え38歳の師は東京本郷に「浩々洞(こうこうどう)」と名付けたサンガ(信仰共同体)を開いた。そこで暁烏敏(あけがらすはや)・佐々木月樵(ささきげっしょう)・多田鼎(ただかなえ)・原子広宣(はらここうせん)ら二十代の学徒と共同生活を送りつつ、明治34年『精神界』を発刊。編集発行の一切を彼らに委ねた。だから『精神界』は師が指名した若者の手による同人誌である。同年真宗大学(現在の大谷大学)には、初代学長となった。
そしてその2年後、「明治三十六年の 六月六日朝一時 血を吐きながら念佛を 稱(とな)ふひまなく逝(ゆ)きませり」(暁烏敏作『清澤満之先生讃仰』)、「ひゅーどろ」とご西帰された。振り返れば生涯にわたって「被教育者としての教育者」だったのが清澤先生である。


昨今一部の研究者が「サンガ」という点を見ようとせず、あるいは見落として、御用教学に収まらない斬新な思想は門弟の文書改ざんと主張している。因みに『精神界』の編集発行人は暁烏先生であり、そう決めたのは清澤先生である。にもかかわらず文証無き珍説が主張されるのは、清澤先生の世界が未解明の証であり、むしろ前途は明るい。

09年8月30日広大舎夕食
09年8月30日広大舎(石川県)にて。「香草忌」の後、清澤先生・暁烏先生の世界について語り合った。私にとって最も具体的なサンガとは、例えばこの時と場である。


清澤先生の教育の実際は次のように伝えられている。
「先生の弟子に教うるや、各人の性格をさとり、其の機に応じ、智を以て之を開発し給う。先生は卓勵たるソクラチツク(※ソクラテス)の論法を以て我らを開導し給い、和田龍造や佐々木月樵に対して学問の真天地を教え、多田鼎に対しては徳の天地を示し、予(※暁烏師)に対して信の天地を教うること、誘導至れり尽くせり。かくて終には絶対の仏地に我等を引入し給いけり」(暁烏敏談・法蔵館版『全集』8巻254㌻)。
「各人の性格をさとり、其の機に応じ、智を以て之を開発」とは「対機説法」である。
「予に対して信の天地を教うること、誘導至れり尽くせり」とは「種々に善巧方便(ぜんぎょうほうべん)し われらが無上の信心を 発起(ほっき)せしめたまいけり」(「高僧和讃」善導讃 『聖典』496㌻)である。
親鸞聖人は「発起」に「昔よりありしことをおこすを発という。今初めておこすを起という」と註釈(左訓)されている。

暁烏先生はいう。
「教育は、人間が何物かを学ぶことではない。人間の心の中にひそんでいるところの智慧を引き出し取り上げてやることである。産婆法の教育というのはソクラテスの教育法をいったのであるが、真の教育は外にないのである」。(『暁烏敏全集』第14巻584㌻『ソクラテス』)

ソクラテスと釈尊は、ここに統一された。真理は時代を超えてグローバルである。「産婆法」。言い得て妙である。

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