三味線婆ちゃん
2020.11.19
去る12日、横浜組門徒会研修にて「妙好人」について話した。門徒会役員の中に「妙好人」に惹かれている方がおられ、一方で言葉さえ初見の方が多いので、語意から話してほしいとのご依頼であった。
当日は説明的で冗長な「説迷」(高光大船師の仰せ)に終わり、ご依頼には全く応えられなかったが、三味線婆ちゃんの世界にあらためて触れる機縁となり、私としては有難いことだった。
本名岡部はる(通称名:つね)。明治23(1890)年石川県河北郡内灘室の漁師の家に生まれた。大坂の「芸者屋」に身を置いた後に、芸人として「一時はエンタツアチャコといっしょに吉本興業の舞台」にも出ており、座長となって一座を組んでいた時期もある。羽振りが良かった時期は「お金もよう入ったし、金やダイヤの指輪かていくつもはめてたもんや」。「そんな生活が崩れはじめたのは結婚に失敗したためであった」。二度の結婚に失敗し、神戸で貧乏暮らしをしていた際に関東大震災が起こり、その報道写真を見た衝撃から「真剣になって聞き出したのは四十八歳の時だった」。
三度目の結婚をし、実弟の遺した子どもを養女として引き取り育てたのだが、大きくなった養女に「事もあろうに再婚した主人が手をつけたのである」。
不倫や浮気どころではない。「同じ屋根の下で、毎日いっしょの釜の飯食うとるモン同士」が「われのおやじ(夫)をわれの娘と取り合いするのやさかい・・」、その苦しみは尋常なものではなかった。「四十八(歳)から五十一の年まで丸三年間、これがほんまの地獄やなあ思う生活やった―」。
主人に捨てられた三味線婆ちゃんは家を出て、聞法求道の流浪の生涯が始まる。
苦闘、苦悶のはてに「鬼や畜生やというて恨んだり憎んだりしてきたわが子と主人こそ、このわてをこの広い道に出してくれんがために、あの姿になって御催促してくれた仏さんやった―」という世界が到来する。
以下、婆ちゃんの仰せのごく一部を記す。
〇仏法いうもんはその日一日や。
〇わては踊りもしますけどな、三味線でも踊りでもかんじんなとこは二つか三つやぞ。そこをおさえたらぴたっときまるとこがあるのや。仏法かてそこをはずしたら、あとはどないに長いこと聞いたかて稽古(けいこ)したかてガヤガヤや。
〇現在自分の暮らしの中にお説教いくらでもあるのや。お念仏もらうとそれが聞こえてくるのや。そやさかい、さっきもいうように死んで極楽へいきたいとも思わにゃ、又、その必要がなくなるのや。
〇だいたいな、苦抜けしたい苦抜けしたいいうのは十九願の世界や。観経さんやな。それから極楽へ行きたい極楽へ行きたいいうのは二十願の阿弥陀経の世界や。
〇ああ、わての肚(はら)がどこできまったかということかいな。それは、われいうもんをよう見せてもらうのや。・・このわれいうもんを見せてもろうと、毎日の仕事いうもんは、地獄行きより他にしとらん。極楽行きいうところは、こっから先、爪の先ほども出来んのやさかい。そしたら、あーあ、落ちるまんま、そのまんまやったなあ思うと、そこで手が打てる―。
林暁宇著『三味線婆ちゃん―念仏内局の陰に』(※「念仏内局」とは昭和26年暁烏内局につけられた名である)現在は絶版だが昭和57年11月20日に大谷派出版部から刊行され、版を重ねたロングセラー。
☟三味線婆ちゃんが手を合わせていた「御本尊」。呉服屋のチラシの裏面に樹木と六字名号がペンで書かれている。四隅には画鋲の跡が残っている。林暁宇師旧蔵。
https://ryouzenji.or.jp/wp-content/uploads/2020/11/④三味線ばあちゃん「本尊」.pdf