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コラム・法語
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中本昌年著『歩くということ』

2023.11.20

奈良県「大和仏教センター」を主宰されている山西睦子さんから、自主刊行された水色の小冊子が届きました。山西さんは故岡本暁精・暁禮ご夫妻のご息女です。お母さまである暁禮先生の実家は、石川県金沢市「五郎島(ごろうじま)」という在所の農家、中本家ですが、この冊子は山西さんの叔父上にあたる中本昌年先生(哲学者・富山大学名誉教授・1940年~)が執筆された『崇信(そうしん)』誌の巻頭言17篇をまとめたものでした。山西さんに刊行の意図を尋ねると、「歳を重ねた叔父さんに元気を出してもらいたくて。叔父さん孝行ですよ」と屈託のない即答。表紙の空色とシンクロした、カラリと底晴れした声音でした。



1997年9月号~2019年3月号の巻頭言17篇(著者57歳~79歳当時)ですから、2004年頃から「崇信」読者となった私も10篇ほどは読んでいるはずが全く記憶にないのです。
ところが、今回読み返すと文章のそこかしこから南無阿弥陀仏が聞こえてきます。読書にも時機純熟、「時」があるのですね。


文意を損ねる恐れを省みず、抜粋を転載します。

◆歩くことによって、自分を出るのである。出ることはまた、他者と出会い、出会うことによって自分に帰ることである。外へと出ることによって、内へと帰る。ただ出るだけで、帰ることがないのは、いのちの充実・蘇生としての循環の欠如である。往還一つのところに人間の人間としてのいのちの現成があるにちがいない。
「はるかに行くことは、遠くから自分に帰ってくることだ。」(森有正)
※『崇信』1998年9月号【抜粋】

◆歩くということには自分を出るということがある。
だが自分を出ると言っても、なかなか出られるものではない。生・命あるかぎり、わが身にしがみつき、わが想い(願望)をかなえんとして、くる日もくる日も、齷齪(あくせく)しているのが人間だからである。

◆自分から出て自分に帰るということは、自分になるということである。人間はどこまでもなるものとして初めて人間なのだ。「本願を信じ、念仏もうさば仏になる」(歎異抄)と言われるときの「なる」である。
※二文共『崇信』1999年10月号【抜粋】

◆過去をみつめ、過去を背負って歩く。現在はそんな歩きによって開かれる。救いとは、なによりもまず、過去と現在が結び合い、現在が未来に開けること、をいうのではないか。
※『崇信』2015年5月号【抜粋】


暁烏敏師
暁烏敏師(1877-1954)


中本先生が執筆された最後の巻頭言は2019年3月号ですが、その一文は最後でありながら最初を書きとったものでした。終着点が出発点になってくださっている告白は、まさしく「回向したまえり」です。最後から来る最初の実験談として、私に深く刺さりました。以下にその前半を転載します。



小学校の五年生のときだったか六年生のときだったか定かでない。母に連れられて明達寺の夏の講習会に参詣したときのことである。
法話の休憩時間に、本堂の階段をおりたところの庫裡(くり)のトイレで用を足し、出ようとすると、背後からコツコツと音がする。振り向くと、白いころもを着たこの世の人とは思えない仙人のような老人が、杖をついて階段をおりてくるのだ。壁と思い込んでいたところに階段があったのだ。幻覚ではないか。驚きのあまり、身がすくみ足はゆかにはりついて動かない。階段をおりきった白いころもの老人は、目が見えないらしく、杖をみずからの少し前方にコツコツと打ちながら進んでくる。杖がわたしの足に触れた。
「だれや」。
わたしは自分の名前をつげた。
「そこをどきなさい」。
不思議なことにゆかにはりついていた足は軽々と動いた。わたしは夢中でトイレを出た。
この経験は、世にありながら世を超えた人、そんな人に出会った、という経験であった。そのこうごうしさはこの世の人を超えていた。本堂に戻って母のとなりに座ったとき、あの仙人のような人は暁烏敏(あけがらす はや)であったのを知った。
大学生になったわたしは生きるのが苦しくて、暁烏敏先生宛に長文の手紙を書いた。先生はすでに五年前に他界されていた。それを承知の上の手紙であった。
トイレでの経験から七十年ばかりの年月が過ぎた。わたしはわが身の奥底に、いまだに、あのときの先生が息づき、わたしを励まし、わたしを活かし続けているのを感じている。
※『崇信』2019年3月号【抜粋】


親鸞聖人は半世紀以上前の師法然の笑顔と仰せを「いまにいたるまでおもいあわせられ候うなり」(聖典603頁)と、88歳の「いま」、出遇い続けていました。
この時の親鸞聖人と中本先生が賜った立脚地は、800年の年月を超えて同一です。なぜ同一といえるのでしょうか。
それは個人の思い出ではなく、公明正大な真理経験だからです。

さて、本書を通じて、私に突き刺さった暁烏師の声。
「だれや」。
この一言に極まります。南無阿弥陀仏

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