京都国立博物館『親鸞-生涯と名宝』
2023.03.10
浄土真宗各派では、今春に「親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要」が勤まります。「慶讃法要」は大正12年に初めて勤まり、今回が3回目ですが開催趣旨もピンときません。
「参拝のしおり」の総長挨拶や年表にも、親鸞展のリーフレットにも「御誕生850年」には触れていても、「立教開宗800年」について一切触れていないのは甚だ疑問です。35億円もの寄付を集めながらも、お参りくださる門徒からの「立教開宗800年とは、どういうことですか?」とのお訊ねに真正面から応答しない宗派の現状には忸怩(じくじ)たるものを感じます。
とはいえ、この展覧会を目当てに京都に身を運ぶのは意味があります。国宝11・重文約70というスケール。座学だけではわからないことが、法宝物からきっと聞こえてくることでしょう。私も楽しみにしています。
暁烏敏先生は、『大谷派の現状に就いて』(『暁烏敏全集』14巻367-373頁・大正10年)という一文の中で、それまで勤めたことがない「慶讃法要」(大正12年)に対して、歯に衣着せぬ言辞を突きつけています。(暁烏師の厳しい批判については、教学研究所発行『教化研究』165号42頁・御手洗隆明研究員「大正昭和期「宗祖御誕生・立教開宗」慶讃法要私観」にも記載されている)
「宗祖(親鸞聖人)の法要をやるについて、集金をする。その集金が立教開宗の精神に背いているとすれば、法要を勤めるのは果たして何の為になるのか。・・宗祖の嫌がられそうなことをやって、金を集めて、宗祖の法要を修して、それが何になろう。そんなことなら、むしろはじめからやらぬ方がよい」
「誰が今日の宗門(真宗大谷派教団)にかくたる望みの光を認め得るものがあろうか。恐らく一人もあるまい。皆が「困ったことだが仕方がない、仕方がない」と言いつつ、自分の心にも許さぬことをやって、その日逃れの芸当をやっておるのではないか」
「聖人はどこまでも宗教家というよりも、生活者であった。したがって聖人には立教開宗というような仰々しいことはなかったのだ」
「記念伝道の為とやらとて、南条文雄師(大谷大学学長・当時)はじめ、いわゆる徳の高き方々が各地に出張しつつある様子だが、南条師はこんなことをどう思うていらるるのですか。「わしは教学のことだけ言う、金のことは知らぬ」と逃げていられるようですが、ほんとうにあなたは金のことはご存知ないのですか。あなたの信じていなさる仏の前にて、それを公言して恥じないのですか。知って知らぬふりをしつつ、人の非を遂ぐるのに働いていらるるのを見ては、師の徳についても、私は疑わずにいられないのである」
さすがは、暁烏先生。「忖度(そんたく)教学者」でなく、生活者の視座を失っておられません。
しかし100年前と同じ過ちを我々僧分がくり返すのは、僧分がいかに同調圧力に弱く、また自ら考えようとしない無疑問体質に陥っているかを証明して余りあります。「みんながお参りするのだから、そんなことを言うな」と、「みんな」を持ち出す顔がいくつも浮かびます。いつでも「みんな」、内輪のメンツだけを優先し、忖度し、空気で物事を決めていく体質は、大本営発表を捏造した組織体質と重なります。
「みんな」を持ち出さずに「親鸞におきては」と態度を表明し、「ただ仏恩の深きことを念じて、人倫の嘲(あざけり)を恥じず」(聖典400頁)と言いきった聖人にこそ私はお遇いしたいのだ、とハッキリさせてくださった意味において、この度の慶讃法要はご勝縁です。反面教師もまた教師ですから。南無阿弥陀仏