「川崎さん」の仰せ
2024.11.02
茨城県日立市在住の川崎弘光法兄がご西帰されて八か月が経過したが、先般の拙寺報恩講に茨城県から参詣されたT法兄から、川崎法兄の法語集というか、つぶやきというか、出るに任せた言葉の数々をまとめた冊子を頂戴した。川崎法兄と交際があった本願寺派F住職の手になる冊子の第二弾である。
人間は、生まれた時に、
すでに人間に成っている。
それを自我の目ざめから
みずからを人間でない者にしている。
人間に生まれて
人間に成るとは、
人間でない者(猛獣)に
成っている自分に
気づくことである。 愚光(ぐこう=川崎法兄の号)
仏法は
人を救うことでない 自分が救われることである
人に遇うことでない 自分に出会うことである 愚光
仏法は、分からないことは、分かる時がくるまで分からないままにしておくことである。仮に分かったとしても、浅いところで分かっただけのことである。
段々深くなってくると、今まで分かっていたことまで分からなくなってくるのである。元の木阿弥である。分からないことが、本当に分からないと解るのである。 愚光(※抜粋)
よき人の法水を全身に浴びて
ずぶ濡れになって手ぶらで帰るのを
聞法という 愚光
御恩報謝とは、
感謝などでない
命がけで如来の御恩に
報いることである 愚光
「肉体は生きた仏壇である」
桜井和上の言葉 (百々海怜先生より) 愚光かく
言葉こそ法身である。死ぬことがない。
「本当に分からないと解る」とは、「仏法不思議ということは/弥陀の弘誓になづけたり」と詠われているとおりである。分かる必要がなくなれば、自ずから聴聞が始まるんだよ、と法兄は言いたいのだろう。
聞書きの聞書きである、桜井和上(「真々園」初代園主)の仰せは、病身を賜った川崎法兄には殊に響いたと拝察する。「わが身がお内仏や」と言われた方がいるが、同一念仏無別道故である。
池田勇諦先生には「仏法は精神論ではなく存在論である」との金言がある。信心がそのまま言葉になっているので、説明や分別は寄せ付けない。縁起の理法を掲げる仏教の本源をずばり言いあてている。
「川崎さんのおかげで、やっとここに来れたよ」(故百々海怜)
百々海(怜)先生が本誓寺(石川県白山市 松本梶丸前住職当時)の虫干し法要に突然姿を現した。首にかけたカメラで本堂内を撮ったあと、私には目もくれずに宝物の方に行かれた。しばらくして、私の方に来られて、嬉しそうな顔でこの言葉を言われた。この時、わたしはサンガの仲間だなぁと本当に思った。この半年後の翌年一月一日に先生は帰浄された。浄土真宗は、御同朋、御同行のサンガの仲間、僧侶も同行も関係なく、サンガの場で心置きなく語り合える力強い集団なのだ。
吉野秀雄、八木重吉、松尾芭蕉、種田山頭火、正岡子規などに共鳴し、琴線に鳴り響く言葉、その余韻に人一倍敏感だった川崎法兄だが、号名の通りに法兄の言葉もまた「愚光」を放ち続けている。これらの言葉のおかげで「川崎さん」にいつでも遇える。まさしく「実語」である。南無阿弥陀仏