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コラム・法語
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暁烏敏師と三味線婆ちゃん

2021.09.03

昭和41年5月27・28日 暁烏敏師(香草院釋彰敏)13回忌法要  
講師 曽我量深師・金子大榮師・藤原鉄乗師 ※写真は全て横山定男氏撮影
暁烏哲夫住職(当時)  清澤満之師の御令孫 清澤哲夫師が明達寺に入寺された

手前から三人目あたり。剃髪し、首に手ぬぐい?を巻いた婦人が「三味線婆ちゃん」である。[岡部つね・本名はる 明治22(1890)年石川県河北郡内灘町生まれ 昭和47年1月6日82歳西帰]

昭和26年5月暁烏師が大谷派宗務総長の折、ラジオで「東本願寺のただならぬ赤字財政」を知った婆ちゃんは、「今は本願寺派やけど、生まれた家はお東や」と吉崎蓮如忌で三味線と自作の歌で集めた投げ銭を大谷派本山へ。ところが「乞食姿の老人が一人汚い荷物を持って」「これでご本山の借金返してや」と袋一杯の投げ銭を差し出すので、本山宗務所でたらい回しに。上役へ、上役へ、で何と暁烏総長のところまで。「お金を持ってきているのが、実は乞食のようなんです。どうしましょうか・・」との報告を聞いた暁烏総長は「乞食ならなお会いたい」と。盲目の師は婆ちゃんに向かって「聞けばあんた乞食なそうだが、このお金はどうして集めたー」と聞いた。先刻からのみんなの不審がそこにあることを知っていた婆ちゃんにとっては、「このぶしつけな質問がかえってこころよかった」という。そこで歌を唄って集めた投げ銭との事情を話すと、師は「そのあんたの唄っとる歌というのをここでわしに聞かしてくれんか」。

一つともせ。人と生まれたうれしさを、忘れて暮らすも欲のため、取ろうつかもうで日を送る。聞いた、おぼえた、信じたと、和上様より高上り、自慢たらたら暮らせども、百までもたぬこの命、死んで未来はどこなれば、一百三十六地獄、めぐりめぐって今は早や、八万地獄の釜底で、時を争うて責められる。そんなお方はいまへんかいな。ほら、ザクザクじゃい。

二つともせ。再び出られぬこの娑婆を、知っていながら野放図に、人の前では善人らしい顔をして、その内心は、人がこけよが倒れよが、われさえよければそれでよし・・

3人目に三味線婆ちゃん!僧籍を得ていたのだろうか?その後ろの長身は岩瀬暁灯師



歌を聞かれた師は「アンタ、そこまで喜ばれるようになったのは只ではなかろう。どうしてそこまで喜ばれるようになったか、聞かしてくれんか」。
そして「あんたらもこの婆ちゃんの話を聞かしてもらえ、仕事は後でいいから」。総長室に居合わせた参務以下数人が婆ちゃんの歌を聞き、一代噺を聞いたはずである。

婆ちゃんは後に「わてはその時、心の中で、ああ、この総長はんは、肉体の目ェこそつぶれていなはるが、心の目ェの開けた人やなあ、と思いました。この総長はんにならわての恥話を聞いてもらおう思うて洗いざらい話さしてもろうたのや」。

「あんたらもこの婆ちゃんの話を聞かしてもらえ、仕事は後でいいから」。
この一言が口から出るか、出ないか。単なるノスタルジーでなく、仏法聴聞の何たるかを鮮烈に教えられる。と同時に13回忌法要に婆ちゃんが参詣している背景の限りなき深さが仰がれる。南無阿弥陀仏。
(※「」内は林暁宇著『三味線婆ちゃん 念仏内局の陰に』真宗大谷派出版部)

手前[剃髪・眼鏡]西村見暁師/後[ネクタイ+間衣・眼鏡]アメリカ在住 久保瀬暁明師/左[五条袈裟]岡本暁精師(大和仏教センター主宰) 暁烏師いわく「坊さんは在家出身に限る」 

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