本山報恩講に参詣して
2020.12.01
11月28日報恩講御満座に京都東本願寺(真宗本廟)に参詣しました。新型コロナの感染拡大局面でもあり、例年とはまるで異なる様相にあらためて現実を見せつけられた感しきりでした。「有り難くない現実こそが仏法だぞ-」と親鸞聖人はしっかりと前を見据えて、いつもどおりに端座しておられました。
讃仰講演会での池田勇諦先生のご法話を聴聞することが近年の私にとっての本山報恩講になっています。今年の讃題は「阿弥陀仏は信ずる主体」。厳しいといえば、これほど厳しいご法話はありません。と同時にこれほどご親切なご法話もありません。師は法話の結びでこう仰いました。
「お前は生ぬるいぞ-と親鸞聖人から言い当てられている。そこに身をすえなければ、聞法は始まりません。たとえ聞法していても、遊びですわ」。
9か月半ぶりに直にお聞かせいただいたご法話は格別の響きでした。ZoomやYouTubeもいいが、私にはやはり面授しかないと知らされました。
以下、聞書き寸言を列記します。(法話録全文がいずれ真宗大谷教学研究所編集月刊紙『ともしび』(年間購読1500円)に掲載されます ☞ 出版部075-371-9189)
「わかれば救われるんでしょ?」-わかっても救われないのです。でもそこがわからん。面倒なところです。
自我の私がいくら聞いても、ただ知識が増えて物知りになっただけでしょ。
主体が転換するとは、どういうことか。「主」としている自我がどこかへ行ってしまうことではなく、「従」にしている仏法が「主」につく。「主」と「従」の位置が転換する。信心は一念の信でしょ。ここが大事です。一念とは一瞬です。立ちすくむ その時々に 射す光。自我で生きとる限り、立ちすくむことになるでしょう。そこに射す光。
福井のある方のお言葉です。「ああ聞いた、こう聞いたが仏法ではなかった。聞こえて下さる仰せが仏法やった」。信心とは一瞬射す光だから、次の瞬間はまた自我が主です。だから立ちすくむ。そこで射す光。「ああ、そうだったなぁ。また私有化しておったなあ」と気づかせられる。「この一念、臨終までとおりて往生するなり」(『真宗聖典』854頁)、「憶念の信つねにして」(『真宗聖典』478頁)ということは、一念の反復です。
宗教は体験だが、体験主義ではない。体験を私有化するから悪魔化が起きるわけです。「わかった」と私有化すると、他人を裁くわけです。「その人はダメ。あの人はよく聞いとる」という具合に。自分は天上に昇って裁くのです。恐ろしいことです。
自我の私にとっての仏法は、地獄逃れの方法でしかない。
阿弥陀仏は信ずる主体になって下さる救いですから、地獄へ行ける救いなのでしょ。仏だから地獄へ行ける。自我で生きている今日の私では、地獄へは絶対に行けませんよね。自分の都合を中心にして、嫌なことは逃げられるだけ逃げる生き方でしょ。だから暗ーい顔をして生きてますわ。
自坊の門徒のご婦人が「私の座右の銘が与えられました」と報告してくださったのです。遠藤周作氏の著書を幾度か読んで感得された言葉です。「汝は冷たくも非ず、熱くも非ず。ただ生ぬるきなり」。「ただ生ぬるきなり」。これが今日の私なんですわ。真剣に聞いておるようで聞いていない。かといって、聞法をやめるわけでもない。蛇の生殺し。今日の私の「生ぬるき」態度が真実の聞法道を歩ませない。「生ぬるい自分だな」。自分をいたむところにだけ、真剣に聞くということが始まります。